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2012年2月29日水曜日

効率化と優しさの両立


私は効率化が好きだ。なぜなら「誰にでも公平に流れているはずの有限の時間」の密度が変わるからだ。今の時代、時間の使い方の上手い人が強いのだ。今の時代に限ったことではないかもしれないが、少なくともその傾向が顕著であることは間違いない。

仕事の書類を飛脚に運んでもらうのか、電子メールで送るのと、どちらが有利なのか・・・という比較はもはや必要ないだろう。「昔はのどかでよかった」という議論には賛成だが、残念ながら今はそういう時代ではない。その時代の善し悪しはともかくとして、今、時代の流れにそぐわない選択をすると、結果的に自分だけが取り残されることになってしまう。

すこし脱線してしまったが、私が「効率化」を推し進めたい仕事の領域は非常にセンシティブな分野だ。メンタルで困っている方々が職業に就くにあたって、いかに行動の効率性を高めて余計に疲れないようにするか・・・という点が重要になる。

ただ、効率性を極限にまで高めてしまうと、深く集中するためにコミュニケーションの頻度が激減してしまう傾向がある。たとえば「気軽に声をかける」ということが難しい環境になりやすい。なぜなら効率性を最優先する場合、「割り込み」の要素をいかに減らしていくかということが重要になるからだ。

「効率化」を徹底していない状態においては、声をかけられたらすぐに仕事を中断して、呼ばれたところに気軽に移動していた。そこでは仕事の進め方についての相談を受けるわけだが、仕事の話だけではなくそのまま雑談になってしまうこともあった。しかし、その結果として利用者のモチベーションが高まることも少なくなかった。

現在、メンタルな現場で仕事の効率性を高める実験的な試み(ToodledoとTogglというツールを使った作業ベンチマーク)をしているが、反応は芳しくないようだ。むしろ、利用者がストレスをためているようにすら見える。「効率化」に対する考え方のベクトルがある程度同じ方向を向いていない人にとっては、単に「つらい環境」になってしまうだろう。

効率化の究極形は「集中力を途切れさせない時間」と、「コミュニケーションの時間」を分離してまとめてしまうことなのかもしれない。つまり「相談窓口受付時間」を決めておいて、指定した時間に待ち行列を作ってもらうというやり方だ。しかし、コミュニケーションの敷居は一気に高くなってしまう。

そこで、今一度、私がやっている仕事のあり方を見直してみた。私が怠ってはならないポイントは「利用者の不安」に対して「迅速に気づき」「必要なメンタルケアをする」ということであり、私ひとりの効率を高めるということではない。「効率化」を求めるあまり、メンタルケアを怠ることになれば、それは結果的に「私の仕事の品質が低下した」ということになる。

つまり、単純にコミュニケーション密度を下げた「効率化」は、逆に私の仕事の品質を損なう恐れがある。しかし、私はこれくらいのことで「効率化」をあきらめてはいない。「間断なく割込みが入る」という環境を受容した上で、その前提でいかに必要な業務が進捗していくか・・・という運用を含めた環境構築が必要になるのだと思う。

具体的な方向性としては、

 ・タスクの単位を最小単位まで細分化する【細かい割込を前提とする】
 ・タスクの進捗を一目で把握できる表現を身につける【本線への復帰速度】
 ・作業の切り分けと委譲をしやすい環境を構築する【本質的な負荷分散】

ということだと思っている。

ただ、そうはいっても、私がいくつかの小さい企業で目にした「効率化に目覚めた社長」がやらかす失敗を再現しないようにしたいとも思う。たとえば「12分毎に作業ログを取る」とか「相談受付窓口時間を設ける」などのルールを、いきなり社員全体に徹底させようとすることだ。

個人的にこれらの方法論は正しいと思っている。実際に私自身も業務ログを詳細に取っているし、極力、無意味な会話に時間をかけるようなことはしたくない。集中力の凝縮と解放のタイミングはまとめてしまいたいと考えているので、集中力がいらない時間帯にまとめてコミュニケーションしてしまいたいという気持ちもある。

しかし、これらは効率化に対する価値観が合致してこその効果だ。作業ログを取る行為も、「そのログを『自分の視点』で分析する」というモチベーションがあって初めて機能するものだ。作業ログをを第三者による監視と指導のために運用しようとすれば、当然、虚偽の報告も発生するかもしれない。そもそも改善意欲よりも反発心が表に立ってしまうだろう。

効率化はあくまでも「全体効率」を考える必要がある。誰か一人だけが徹底して仕事が早くても、組織としての強さにはならない。ある点において「部分効率」が全体の品質を高めたとしても、その人材がいなくなれば、組織としてのポテンシャルは急激に低下してしまう。このこと自体も大きなリスク要因だ。

そのためには焦って効率化を急進的に進めるよりも、「幸せの同意事項」のような形で、緩やかで薄くても、少しずつ「効率化」=「しあわせ」という価値観を組織に浸透させる必要があるのだと思う。GTDなどの技術的な方法論は私にとって魅力的であることは変わらないし、今後も極めていきたいと思っている。

しかし、私は「メンタルの現場」というセンシティブな領域において、無駄なストレスを利用者にかけることなく、「幸せな効率化」を追求してみたいと思っている。これが私が未来に構築したい「メンタルユニバーサル環境」だ。さあ、明日もそんな「しあわせ」を追いかけてみたいと思う。さあ、明日は何するか!

2012年2月22日水曜日

これって私に向いてますか?


私はメンタルで実務経験の少ない方々と一緒に仕事をしている。一応は「支援」という形式ではあるが、彼らの潜在能力、そして実際に見せる高いスキルとモチベーションには目を見張るものがあるし、私は彼らと一緒に働けることを心から感謝している。数年前、この仕事を始めた頃の予測を遥かに超えているといっていい。

私は彼らとずっといつまででも仕事をしていたいと切に願っている。「彼らの才能を無駄遣いする企業には入社させたくない」と本気で思うほどに、私は彼らの将来性を信じている。彼らの今後の現実については、私にとって大きな課題でもあるし、いくつかの未来図を頭の中に描いている。

しかし、今回のエントリに書きたいことは逆のことだ。私が構築した環境で新しい才能が開花した人もいるが、その一方で大勢の利用者をがっかりさせてしまった事実から目を背けることはできない。そして今後もその比率を大幅に変えることは難しいかもしれない。

なぜなら、私が指し示しているITという領域は「狭い道」であり、さらに「簡単ではないこと」だからだ。もっと正確に表現するならば、【心の底からわき上がるほどの興味がなければ】「簡単ではないこと」ということになるだろうか。逆にいうと「あまり興味がなければ無理」という現実がある。

つまり、最終的にはその人の本質的な才能に依存しているのだ。「ちょっとITが気になって・・・」という入り口から「おもしろい」にいくのか「わからなくて怖い」にいくのか・・・それは残念ながら本人の資質に関わってくる。これは「頭の良さ」という次元とは別の話だ。

たとえば、私にはミュージカルを楽しむという習慣はないし、美術館で芸術鑑賞をするという趣味もない。興味のベクトルがそこに向いていないのだから仕方がない。おそらく「努力」すれば、いくつかのミュージカルや絵画の概要を覚えることはできるだろう。

それでも、心からそれらを愛している人ほどに熱のこもった解説はできない。ましてや私はそれを仕事にする意思もない。だから私にはミュージカル関連の仕事や、芸術関連の仕事は向いていないのだ。そもそも興味のないミュージカルや芸術鑑賞に時間をかけること自体が苦痛なのだから。

私が考える「向いている」といえる条件は、たった2つ。

・第三者から見れば「努力」しているように見える
・本人からすれば「遊び」の延長上にすぎない

これなら無理に集中力を注ぎこむ必要はない。その集中力は強制されたものではなく、映画や小説を読みふけるのと同じ「快」に属する集中力だからだ。それにもかかわらず第三者から見れば「努力に余念がない」ように見えてしまうのは、その集中力がもたらす結果が実用的だからだろう。

よく利用者の方から「私はITに向いているでしょうか?」と聞かれることがある。意地悪のつもりではないのだが、つい、こう言いたくなってしまう。「向いているかどうかを気にして、他人に適性を聞いているうちは向いていないんじゃないでしょうか?」と。

よく、「『小説家になりたいといっているだけの人』は小説家になれない。本当に小説家になる人は『もう書き始めている人』だ。」という話を耳にするが、まさにその通りだろう。ITに向いている人は「向いているかどうか」なんて気にする暇がない。そんなことで悩む暇があったらPCに向かって何かをするだろう。

そして、たまに「体系的な勉強をしてから挑戦したいです」という人にもお目にかかることがあるが、たぶん、それもやめた方がいい。本当に向いている人は「勉強」なんてしないのだから。

詳細な説明はまた別の機会にしたい。

2012年2月16日木曜日

障害分析マニア


今となっては「なんだかなあ」なのだけれど、数年前の私は「障害特性」という言葉に惹かれていた。「障害特性」にあわせた対処法を数値化なり見える化なりして、その結果を計測すれば理論体系を確立できるのではないかと思っていた。

正直なところ、今の私は障害特性という言葉に何も感じない。統合失調症だろうが、発達障害だろうが、障害分類名に興味はないし、それによって扱いを大きく変えることもない。単に「本気でやりたいか、やりたくないか」の軸だけで区別をしている。

ただし、「ずっと他人に依存しようとする人」や「言い訳をする人」には、そっと「さよなら」している。それは「自己解決型自立」ができる見込みがないからだ。「できる人だけを集めているのだから、できることは当たり前じゃないか」といわれても私はかまわない。

逆に「『できる人ができない人として扱われている現実』を打開して何が悪いのか」と逆に問いたい。逆に「やる気のある人」を「やる気のない人」と同列に、ある意味で「公平」に扱おうとすることは、著しい「不公平」だと私は思う。

まずは「モチベーションが高い人」が社会参加を果たせる環境を整備することが先決で、その結果、「モチベーションが高いのに社会で活躍できない人」が世の中から消えてしまったら、その時にはじめて「モチベーションがゼロの人」の炎を燃やす方法を考えればいいのだと思う。

それまでは、冷たい人間だと思われる覚悟の上で、はっきり態度を決めている。モチベーションの低い人を押し上げる努力はしない。依存心にもたれかかっている人に手をさしのべたりしない。その代わり、頼りなくても一歩踏み出そうとしている人にはトコトン付き合いたい。

2012年2月3日金曜日

言い訳できない環境

繰り返しになってしまうが、私がやっている仕事は障害者の就労移行支援関連の仕事だが、ただ単に就職できればどうでもいいというものではない。「状況に流されるのではなく」「自分の意思で生きていく」スタイルを身につけてもらいたいと思っている。

そして、その過程で当事者の方々には「障害者であること」を捨ててもらいたいと思っている。もちろん「障害者手帳を便利に使っていく」ことには賛成だ。国で保全された制度を使う権利を有しているからだ。便利な制度は使っていくべきだ。

しかし、心で負けちゃいけない部分はあると思う。それは「自分が障害を持っているから○○できない」と、障害を理由にあきらめてしまうことだ。そういう点については「障害者であること」を忘れてほしいと思うのだ。

私が一年あまりをかけて代々木に構築してきた環境では、一切、障害についての愚痴がでてこない。出てきたとしても、それはシリアスなものではなく、笑い話に変えてしまうような領域の話だ。そもそもが私自身、彼らを障害者だとは思っていない。

いや、これはいささか乱暴なので、もうすこし適切に表現すると、「彼らが障害者認定を受けている」ことは事実として認識している。しかし「彼らにとって仕事における『障害』は一切ない」という認識も、私は事実として受け取っている。

もちろん、常識の範囲を越えた過大な負担を彼らに課すことはないが、忍耐力が試されるシチュエーションは体験してもらっている。一生懸命やったことでも、方向性が違っていればはっきりとそのことを本人達に伝える。なぜならそれは彼らが認識すべき「クオリティ」だからだ。

私と当事者の方々が織りなしている仕事環境の空気は穏やかだ。しかし、クオリティについての妥協を許さない空気も同居している。そして、その環境において「自分は障害を持っているから○○ができない」という「言い訳」を私は聞いたことがない。

なぜならそこの仲間ができているからだ。仕事を楽しみながら、自然とそのクオリティを高めている人たちが普通にいる。今、そういう得意な環境は日本の中に少ないかもしれない。しかし、私にとってはそれが当たり前になっている。

いずれ、このような形が日本の「当たり前」になれたらいいと思ってやまない。

2012年1月22日日曜日

旅立ちを見送る


訓練生は私と一緒に就労訓練の日々を過ごし、そしていずれは卒業していく。「寂しくないか?」と聞かれれば、正直なところ否定できない。しかし、やはりそれ以上に卒業してもらえるのは嬉しいものだ。その先には自由に生きられる人生が広がっている。今まで体験したことのない厳しさと楽しさを体験することだろう。

今まで一緒に日々を積み重ねてきた仲間たちと、卒業後、どのようなスタンスで付き合っていくのか・・・という考え方は人によってさまざまだ。私の場合は、卒業して離れていった人たちとは一定の距離をおくことにしている。「卒業しても遊びに来なよ!」と、本音では言いたいところだが、私はあえてそれを言わない。むしろ、「来るな!」・・・という感じだろうか。

・・・と、書くと、「自分の影響力が及ばなくなった人に対しては冷たくなるのか?」と思われてしまいそうだが、実はその逆だ。むしろ、私は「私自身が与えてきた影響力」を彼らから取り去ってしまいたいと思っている。私と一緒に過ごした日々は「過去の日々」だ。卒業したらそこからが「現在の日々」を生き続けることになる。

私自身、実際のところ大層な人物ではないのだが、少なくとも、「人生を賭けている人たち」から見れば、私のことを「目の前にぶら下がっている、たった一本の蜘蛛の糸」のように見ている可能性を自覚している。その自覚こそが、「本当に世の中に役に立つ人材になってもらわなければ!」という私自身の使命感につながっている点でもある。

私の使命感はさておいても、初期の頃は「影響力」はある程度は必要だと思っている。「この人についていったら未来が開けるかもしれない!」という希望が必要だ。人間にとって「前が見えない時」が一番つらいわけだが。そんな、何を信じていいか分からない時期に「盲信的」になれる対象が目の前にいることは重要だと考えている。

どれだけ頭で考えても未来は見えない。すると、考えれば考えるほど不安になっていってしまうものだ。しかし、「とにかく目の前のことを一生懸命やってみよう!」という精神状態にあれば、どんな不安に対してもある程度は立ち向かっていける。誤解を恐れずに白状すると、私は、私の価値観に共感してくれる人だけを支援することにしている。

私の価値観と真逆を向きすぎている人は相手にしない。「勉強」にたとえて言えば、私は「勉強したくない人」に「勉強をしたくなるように仕向ける」という労力を割くつもりはないということだ。基本的に、私は「自分から勉強したい」というスタート地点に立っている人にしか時間を使う気がない。私の価値観と真逆の方向に向かいたい人は、きっとその人に合った支援者が日本のどこかにいるはずだ。そして、私にはできないことをやってくれるだろう。

別に私は教祖のようになりたいわけではない。ただ、「信じてもらえないと、そこからどうにも進めない」というのも事実なので、結果的には「少なからぬ影響力」を獲得することになってしまう。しかし、私があえて影響力を行使するのは、「訓練の場」という狭い空間においてだけだ。うぬぼれも多少は混じっているが、私は訓練生の人生における「カタパルト」のような存在だと思っている。

「カタパルト」というのは、地上の滑走路に比べて滑走距離の短い洋上の空母から、戦闘機が飛び立つために勢いをつけて後ろから戦闘機を押し出すための仕組みだ。カタパルトが戦闘機を押し出す時に、戦闘機がその勢いに逆らってしまうと上昇に必要なだけの速度を確保できない。素直に加速しなければ墜落してしまう。人間も飛翔するときには「素直さ」が必要だ。

しかし、飛翔することに成功したら、そこから先は飛ばされた方向に一直線に飛ぶのではなく、自力で方向を決めて飛ぶべき方向に向かって操縦できなくてはいけない。カタパルトは「勢いをつける」ところまでが仕事なのだ。確かに私が「人生のきっかけ」になることはあるかもしれない。しかし、さらにその先にまで影響したいとは思っていない。

なぜなら、飛び立っていった彼らには、「私の価値観」ではなく「自分自身の価値観」で飛行してほしいからだ。そのためには、卒業後はなるべく私の価値観が影響しないようにしたいのだ。もちろん、私と一緒に過ごした日々の中で体得した価値観もあるだろう。しかし、それは、すでに彼らが獲得した彼ら自身の価値観なのだから、それは大事にしていってほしいと願っている。

#「来るな!」と書いたものの、それでもたまには会いに来てくれて、元気な顔を見せてくれたら嬉しいんだろうな・・・と思う。

#「卒業」を見送るだけじゃなく、「仲間」として一緒に仕事をしていく方向性も本気で考えている。これからもずっと仲間として。

2011年12月23日金曜日

私は差別をしている

私には基本的に「どんな人でも平等に幸せになってほしい」という理想がある。しかし、これから書くことは、およそその理想とはかけ離れたことだ。私にとって実に残念なことだが、私が目指す理想に近づくためにはどうしても越えなくてはならない現実だ。

私の仕事は、「障害」というレッテルのために、なかなか前に進もうとしてもハードルが厳しい人たちと一緒に、「本当の仕事」をしながら、仕事の楽しさを体験してもらうことだ。さらなる特徴として、「自主的な創造性」を形にしていく喜びを知ってもらうことだ。

たいてい、このふたつが十分に満たされていれば、スキルや仕事の効率性は上がっていくし、さらに仲間と協調して仕事を積み上げていくことも自然と身についてくる。ポイントは「楽しさ」と「喜び」だと思っている。だからこそ、私の周りで仕事体験している方々はモチベーションが非常に高いし、創造性も成長性も同じく高い。

しかし、残念なことに「誰でも」というわけにはいかない。確かに最初のうちは「誰でも」という方向性を狙っていた。しかし、様々な状況を経験していくにつれて、それは傲慢で安直な考え方だったと反省に至っている。

私がフォローして幸せになれそうな方々というのは、次の条件を満たした方だ。私が優先している条件の順番に書いてみた。

(1)素直であること
(2)真摯であること
(3)やる気があること
(4)目的意識があること
(5)覚悟ができていること
(6)好奇心が旺盛なこと

私が専門としているのは「IT関連の人材育成」だが、この条件の中には「IT技術に詳しいこと」という項目はない。技術云々は後からどれだけでもついてくる。しかし、それを受け入れるために「人間の器」が先になくては、何も得られるものはない。

先ほどの条件を考えるたびに、私は「障害者支援をしているわけではないのだ」という事実に直面する。なぜなら私が重要視している条件とは、「障害の有無に関わらず『成長できる人材』に必要不可欠な要素」であり、私はこれらの条件を満たしていない人をフォローしようなどとは全く思っていないからだ。

もっとはっきり書いてしまおう。私は「差別」をしている。それは障害の有無という意味での差別ではない。「本気でやる覚悟があるか」「それほどの覚悟がないか」という部分での差別だ。もっと分かりやすくいえば、「障害があろうがなかろうが、本気になれないヤツにかける時間はない」という意味だ。

だから、私と一緒に時間をかけて前を向いてスキルアップに励んでいる当事者のことを、私は「訓練生」ではなく「仲間」だと思っている。正直なところ私は彼らを「障害者」という枠で見ていない。ついでにいえば「メンタル」というところもあまり意識していない。むしろ、プロ意識の芽生えてきた彼らのことが誇らしくて仕方がないほどだ。

さて、私が先ほどの条件を挙げた理由を書いてみたいと思う。

(1)素直であること
→今までうまくいかなかったから、それを改善するために時間をかけていることを忘れないでほしい。つまり、「我を通す」ということは、今までと何も変わらないということなのだ。

(2)真摯であること
→「できる」「できない」というのは一過性の事実だ。そこで必要になるのは「できる」ことを増やすための「自己解決力」だ。それを身につけるには真摯さが必要だ。

(3)やる気があること
→最初から「満ちあふれたやる気」を期待しているわけではないが、多少なりとも「やる気」がなければ、そこから「大きなやる気」に成長させていくことはできない。

(4)目的意識があること
→自分が「何のために」時間をかけているのかを常に確認してほしい。自分が「改善すべき点はどこなのか」を意識しない人は、おそらくどれだけ時間をかけても解決できない。

(5)覚悟ができていること
→ゼロからプロに向かっていく過程において厳しい評価が下されることもある。これは「お勉強」でも「ままごと」でもなく、本当の仕事をやっていただくからこその厳しさだ。

(6)好奇心が旺盛なこと
→私は「指示待ち人間」に興味がない。自分で何かを考えて、そしてそのために何が必要なのかを考え、そして提案できる力を持った人材を育成したいと思っている。

これらは、およそ「就労移行支援事業所」に携わる立場として、ふさわしくない意思表明と思われるかもしれない。しかし、考えてもみてほしい。上記の条件を満たさなくても、大事に扱ってくれる就労移行支援の事業所は日本中のどこにでもあるではないか。

私のポリシーに賛同できなければ、無理に私と一緒にスキルアップを目指さなくてもいいと思うのだ。そういう意味で、私が逆に「お断り」させていただきたい条件も明確に書いておきたい。それは、「自分自身を就労移行支援サービスを受ける『お客様』だと思い込んでいる方」だ。

私は「モチベーションを上げてもらうのを待っているお客様」に時間をかけるつもりはない。そうではなく、「障害など関係なく、闇雲にチャレンジする仲間」と一緒に本気で高みを目指したいと考えている。申し訳ないが、障害というレッテルを覆して「本気で幸せになりたい」人だけを私は本気で応援したい。

ちなみに、私と一緒に前進している仲間たちに面白い現象が起きている。それは「できないこと=障害のせい」にする人が少ないことだ。楽しさと工夫があればたいていのことは乗り越えていける。そして、障害者手帳を持った仲間たちはそれを実践している。後から入ってきた方々もそういう先輩を見て「できない=障害」にはできないんだろうと思う。

こんな場を見学される方からは「本当にこの方々は障害者手帳をお持ちなんですか?」とよく聞かれる。それくらいに「障害」を忘れて仕事に没頭できる環境が日本中にできていけば、おそらく日本は変わっていくんだと思う。この国が障害の有無に関係なく仕事を楽しめる国になれるように、私は私なりのポリシーで尽力していきたいと思う。

2011年12月17日土曜日

何シテルンデスカ?

実はいろいろな人に聞かれていたのだけど、あんまり書かなかったことを書いてみようと思う。「具体的にどんな仕事をしてるんですか?」という質問に対して、私は「成長を見守っています。」と答えてきた。

実際のところ、下手に力を貸して、自力で解決する力を奪いたくない。だから、ある意味で成長を見守っているというのは正しい。だけど、そんな情報じゃ何も参考にならないので、今回は本質的な仕事の内容を書いてみる。

私が日常的にやっている仕事はとても地味だ。一例を挙げれば、利用者の方々が楽しく仕事ができるように、お客様からお預かりした仕事の分解や組み立てをしている。全体のスケジュールを立てたり、体調を見ながら進め方を変えたりしている。

そして、誰かの仕事が終わる前に、その人の成長を見込める仕事を間断なく提供していくわけだ。他にも納期の見積もりやクオリティチェックなどもあるが、実はこの見積もりとクオリティチェックが地味に難しい。

作業自体の工数はある程度読めるのだが、仕事をする担当者が体調を崩すことをある程度見越しておく必要がある。しかし、そこに甘えてしまうと、納期や品質面で「やはり障害者だから・・・。」という評価になってしまいかねない。

そうならないためには、最小の工数で疲労コストを徹底的に抑える作戦をたてなくてはならない。一昔前のIT屋さんでたまに見かけた「いざとなったら総掛かりの徹夜でやればいい。」などという判断はあり得ない。短期的に無理が利いても、長期的には人材の磨耗に繋がる。

特にメンタルでお困りの方の実力を引き出すためには、徹底的な「適材適所」と「効率化」が鍵になる。そのために、私が時間をかけて研究しているのが、低ストレスで実現可能なタスク管理や、効率的な業務ノウハウの実践だ。

私の仕事は「福祉」という観点からみれば、ちょっと特殊かも知れない。就労移行支援というと、マナー講座や身だしなみなど、基本的な社会人スキルを身につけていくことに注力することが多い。しかし私は軸足を「実務」に置いている。

そして「どうやったら、低ストレスで最大のパフォーマンスを発揮できるのだろうか?」という戦略を常に練っている。そして、それを考えることは私のライフワークでもある。だから、私は指導そのものよりも思考に時間を割いている。

その結果として、メンタルでお困りの方が幸せに「最高の仕事」をしていただければ、それは彼らの勝利でもあるし、同時に私自身の勝利でもある。そのためには、常にモチベーションが高まる展開をイメージして、アイデアを実践し、検証し、そして改善する。

従来の就労移行支援の仕事にも大きな価値がある。しかし、私はその方向性とは違うアプローチで、ハンディキャップを持った方々の夢を希望に繋げていきたいと思っている。私は障害者支援業界では異端者かも知れないが、異端者しかできないことが絶対にあるはずだと信じている。

今回、こんなことを書いたのには理由がある。私が私自身の仕事について、表層的な部分を話していたら「なんだ、簡単なんですね。じゃあ誰でもできそうですね。」という反応を受けることがあったからだ。それを聞いて、ちょっとマズイかなと思ったのだ。

地道なお膳立てがしっかりできていなければ、そのしわ寄せが利用者を直撃することになってしまう。そうなれば、せっかく就職に向けて高まったモチベーションや可能性を潰してしまうリスクが高まる。だから、重要なポイントについては開示すべきだと思ったのだ。

ただし、誤解していただきたくないのは、私がお膳立てをするからといっても、利用者の方々がしている仕事のほとんどは彼らの意志決定によっているということだ。ある程度のグランドデザインができたら、進め方は彼ら主導で進めていただいている。

そうなれば、後に続く私の仕事は「アシスタント」的なポジションに変わる。その上で、お客様の立場で賞賛を送ったりクレームをつけたりするし、業務の経験者として考え方のヒントを送ったりもする。

つまり、私がやっていることは、一般企業のプロジェクトリーダーがやっていることに近い。仕事の交通整理をして、仕事を任せてみて、モチベーションの高い仕事を楽しんでいただくということだ。仕事をする楽しさをかみしめてほしいのだ。

私の仕事は「本気で仕事を楽しむ経験を提供すること」だ。しかし、そういう仕事自体が楽しくて仕方がない私がいる。まあ、それでいいんだと思う。「仕事を楽しく」と口にする人が仕事を楽しめていなければ、それはウソなのだから。