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2011年11月26日土曜日

「適当」に負けないために

発達障害の人でよく言われるのは、「明確な指示でないと判断に困る」ということだ。その困り感は私にもよく分かる。たとえば、「できれば適当に掃除しておいてください」という指示があったとして、その「適当」とは、どの適当なのか。

(1) 掃除の工程それぞれの時間を短く済ませるのか?
(2) 掃除の工程のいくつかを省いてしまってもいいのか?
(3) それぞれの工程を日数分割してやればいいのか?
(4) 時間に余裕がある場合だけ掃除をすればいいのか?
(5) (1)(2)(3)(4)(5)のどれかの組み合わせもしくは全て?

残念ながら、死ぬほど考えても正解はない。

なぜなら、頼んだ人の「価値観」によって、すべての選択肢が正解になり得るからだ。「曖昧な指示」は実のところ「指示」の形式をなしていない。こういうことが「発達障害の人は苦手」といわれるが、そんなことは私だって苦手だ。

さて、そういうことを踏まえた上で私はどうしているかというと・・・実はあえて「曖昧な指示」を出している。「おいおい、それじゃ全く意味がないじゃないか」と言われそうだが、それでも私はそうしている。

私も曖昧な指示を受けることは苦手だ。しかし実際の社会に出てみると、やはりある程度の柔軟性が必要だ。いくら苦手だからといって逃げ続けていると生きづらくなってくるのではないかと考えている。

だから、私は「曖昧な指示」をゲームのようにみんなと楽しもうと考えている。曖昧な指示は前提として「予測が外れる」ということが大前提だ。だからこそ、思惑が当たることは奇跡的なラッキーだ。当たること自体がすごいことだ。

そして、たとえ外れたとしても、どうして外れてしまったのかを一緒にたどって考える。すると、その過程がどのあたりまで惜しかったのかが分かる。どこで仕事を依頼した人の意図と外れてしまったのかが分かる。

一般的な企業で、このようなことを試みることは難しいだろう。時間のかかる無駄な遠回りをするよりも、マニュアルで正解を教え込んだ方がいい。しかし、それでは「気づき」を得るチャンスを失ってしまう。

私は、就労移行支援という枠組みの中で「気づき」を得られるチャンスを作りたいと思う。安全に失敗できる場所と時間がなくてはできないことなのだ。自分で考えることを放棄してはいけないと思う。

なぜなら、発達障害と呼ばれる人は非常に論理的な人が多いからだ。だからこそ「曖昧な指示」についても論理的に「処理」することができれば、ある種の「生きづらさ」も少なくなりそうな気がする。

しかし、これは本などから獲得できるものではなく、体験を重ねていく必要がある。理想をいえば、安全に失敗できる場所で数々のシミュレーションをして場数を踏むことが重要だ。

この「シミュレーション」という環境はとても大事な要素だと私は考えている。なぜなら、本番の仕事場で失敗を重ねることはそのまま自信の崩壊に繋がるからだ。そのような状況では「本来の才能」を活かすことなどできない。

当たり前のことだが、人間は怒られたり叱られることで自信を喪失する。その失敗体験をそのままにしたままで時間を過ごしていれば、そこに待っているのは「無能感」しかないだろう。そしてコミュニケーションが怖くなってしまう。

しかし、信頼感の中で自分の中の「思い込み」を修正するチャンスがあれば、変わっていける可能性は高い。これは何名かの発達障害の当事者と一緒に仕事をしていて、私がつくづく実感したことだ。

発達障害という「現象」(私は個人的に「障害」だと思っていない)を持っている人たちが、生きやすい方法論を生み出すことは、私にとって最大のテーマだ。なぜなら私自身もかなり不器用で痛い人生を歩んできたから。

私が様々な失敗をしながら、身につけてきたノウハウを、すこしでも他の人に役立ててほしいと思っている。おそらく、これは多くの失敗を味わってきた自分だからこそ、優秀ではない自分だからこそできることなのだと思う。

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