気持ち的に丁寧な言葉を使いたい気分なので、今日は丁寧に。
今の仕事柄、福祉関連の方々に関わることが多いのですが、本当にすばらしい方々の多いこと。まさに人生を賭けて活動している人が多いんですね。ある意味でとても豊かな生き方をしていると思うのです。ただ、残念だと思うのは「お金」に対するアレルギーのようなものをたまに感じることです。
私はこのブログでも何度も書いているんですが、福祉関連の方々はもうちょっと「お金」のことを考えた方がいいと思うのです。「無償」とか「ボランティア」という考え方も嫌いではありません。しかし、そこにこだわるあまり、自分たちが生み出すノウハウや情報に関する「価値」にも適正な評価ができていないようにも思うのです。
すると結局、そこからお金に繋げることができなくなっちゃうんです。お金がないからやりたいことを実現するのに、ものすごく時間がかかってしまったりハードルが高くなっちゃう。「拝金主義」というわけではないのですが、やっぱりお金は必要なものです。あえて大上段から構えて書くようなことでもないのですが。
で、こういうコトを書いちゃうと嫌われちゃうのかもしれません。「我々のきれいな世界を汚さないでくれ」と言われてしまったとしたら、私には返す言葉が正直なところありません。なぜなら私は障碍を持つ方々と一丸となって利益を稼ぎたいからです。障碍を持っている人と一緒に利益を出すことのどこが悪いのでしょう?
私にとって「障碍」→「純粋」→「美しい心」→「聖域」などという世界観はありません。そうじゃなくて、障碍があろうがなかろうが、人間としてやりたいことはやりたい。稼げるのなら稼ぎたい。それだけだと思います。そんなことを書くと「障碍者を食い物にしやがって」と言われそうですが、そんなことを言ったら、受験業界だって「受験生を食い物」にしています。
しかし「受験業界」について考えてみると、その業界も本質的には受験生をしあわせにするために存在しています。それが「障碍者」という世界になると急にタブー視する傾向が強くなってしまう。これは逆に大きな課題なんじゃないかと思うのです。私のこういう気質が損を招いてしまうのかもしれませんが、おかしいと思うことはおかしいと言いたい。
そういう意味で、ジョイワークセンターはある意味で健全な状況を保てているように思えます。なぜなら利用者の方々にも「コスト意識」を常々持っていただいているからです。どのような工程によって「お客様からの感謝」=「お金」が入ってくるのか。そして、どのような点に気をつけると稼ぎ出すお金が増えるのか。これを明確に意識していただいています。
ジョイワークセンターでは稼ぎ出した利益の中から「訓練支援金」として、業界では比較的多めの工賃を支給しています。もちろん最終的には就職が目的ですから、あまり多くなりすぎないようには気をつけています。たくさんお金を受け取るのが当たり前になると、逆に就職意欲がなくなってしまう可能性があるからです。でも、できるだけ多くお渡ししたいと思っています。
ただ、このコスト意識は必ず今後の就職に役に立つと思っています。私は「きれい事」をあまり好みません。なのではっきり書きますが、「会社はお金を稼ぐ」ということが最も大事です。どんな清く美しい理想を掲げようが、お金がなくなれば企業としての命運は尽きてしまいます。だから「最初に理想ありき」というよりも、「お金を稼ぐメソッドによりそう理想」が必要なのだと思います。
つまり、会社に就職するということは「お金を一緒に稼ぐために戦う仲間」になるということだと思うのです。だって、会社の中でみんながずっと遊んでいたらどんな社長だって怒りますよね。「ここは遊び場じゃない!」って。そうじゃなくて「一緒に戦う仲間」だからこそ、一緒に何かを真剣にやることが面白いんだと思うんです。
私は「障碍を持っている人が特別に美しい心を持っている」なんて幻想は持っていません。たまたま苦手なことやできないことを持っている仲間に過ぎません。そして私自身も「この業界にいるからには美しい心であれ」なんて特別に思っているわけではありません。「できることを普通にやろうぜ!」ということ。それだけです。
で、最終的に何が言いたいのかっていうと「稼ごう」とか「儲けよう」という気持ちって、誰にとっても自然なことなんじゃないかなってことなんです。それが「福祉」という枠組みの中に入ると「清貧こそ人間の本質だ」みたいな感じで価値観が標準化されちゃう。それって本当に関わる当事者が願っていることなんだろうか・・・って私は思っちゃうんです。
+1
2011年1月23日日曜日
漢方薬のように
私と一緒に過ごしてきた方々の成長がすごい。気がつくと私が関知していること以上のことができるようになっている。私の願い通りに進化しているようで嬉しい。
なぜなら私の本質的な願いは「私がいなくてもスキルアップしていけること」だからだ。そのため私の講義では一貫して「自己解決力」の向上にこだわっている。
そういう環境下において、突出した才能を発揮する人を見いだしているのだが、よくこんな質問を受ける。「ここまでずいぶん苦労されたんでしょう?」と。
私としては「いえ、それが全然苦労していないんですよ」と答えるしかない。実際に苦労していないのだから。どちらかというと受講生の方々の努力の賜物だ。
私のやることは、わき上がってきた疑問を整理したり、それを自分で解決するためのものの考え方を伝えること。それから、できるようになった事実を認めて、高いモチベーションを持続してもらうこと。これだけだ。
私の力だけで受講生を引っ張り上げる・・・ということなら、とてつもない苦労を強いられるだろうと思う。しかし、実際のところは受講生が持っているエネルギーによって「自発的に」動いていただいているだけなのだ。
西洋の医薬品が化学作用で状況を好転させるのに対し、漢方薬は人体がもともと持っている抵抗力を増進させることで状況を好転させる。そういう意味で、私は「漢方薬」でありたいと思っている。
正直なところ、私のもとでめざましい進化を遂げた方々は、もともと「そうなるべき人だった」だけなんだと思う。ただ、「障碍」とか「あきらめ」とか「環境」によって見えなかっただけなのかもしれない。
いずれにせよ、私は漢方薬として、これからも「埋もれた輝き」を発掘する仕事を楽しんでいくつもりだ。
なぜなら私の本質的な願いは「私がいなくてもスキルアップしていけること」だからだ。そのため私の講義では一貫して「自己解決力」の向上にこだわっている。
そういう環境下において、突出した才能を発揮する人を見いだしているのだが、よくこんな質問を受ける。「ここまでずいぶん苦労されたんでしょう?」と。
私としては「いえ、それが全然苦労していないんですよ」と答えるしかない。実際に苦労していないのだから。どちらかというと受講生の方々の努力の賜物だ。
私のやることは、わき上がってきた疑問を整理したり、それを自分で解決するためのものの考え方を伝えること。それから、できるようになった事実を認めて、高いモチベーションを持続してもらうこと。これだけだ。
私の力だけで受講生を引っ張り上げる・・・ということなら、とてつもない苦労を強いられるだろうと思う。しかし、実際のところは受講生が持っているエネルギーによって「自発的に」動いていただいているだけなのだ。
西洋の医薬品が化学作用で状況を好転させるのに対し、漢方薬は人体がもともと持っている抵抗力を増進させることで状況を好転させる。そういう意味で、私は「漢方薬」でありたいと思っている。
正直なところ、私のもとでめざましい進化を遂げた方々は、もともと「そうなるべき人だった」だけなんだと思う。ただ、「障碍」とか「あきらめ」とか「環境」によって見えなかっただけなのかもしれない。
いずれにせよ、私は漢方薬として、これからも「埋もれた輝き」を発掘する仕事を楽しんでいくつもりだ。
2011年1月4日火曜日
2011年、無理を砕く!
私が考えている「障碍を持つITスキルなき層」に「ITスキルを実装する」という夢は「時間がかかるし無理だろう」と言われたことだ。無理だ無理だと言われるほど私は燃える。誰もが無理だと思うことは、誰もができると思えることよりも価値がある。誰もができるのなら上手にできる誰かがやればいいのだから。そういう仕事ができるようになった去年は充実した年だった。
私は今、代々木のジョイコンサルティング株式会社において、障碍者の就労移行支援センター「ジョイワークセンター」の運営に携わっている。私も含んだ多くの夢の結晶として去年の10月から稼働しているセンターで、日に日に利用希望者が増えている。私はこのセンターを通して「夢を持った働き方」を経験して欲しいし、そこから巣立つ人材には社会の夢を作ってもらいたい。
「そんなこと無理だ、障碍のない人でも難しいのにデタラメもほどほどにしろ!」とお叱りを受けそうだが、この点において私はド真剣だ。「障碍者なんだから就職できるだけでもラッキーだと思わないと」などと妥協したくない。夢を持って仕事をする権利は誰にだってある。障碍を持っていたら夢を持って働いてはいけないとは誰が決めたのか?
これは私の個人的な思い入れだが、「ジョイワークセンター」という名称は、単に「ジョイコンサルティング株式会社」から「ジョイ」の文字をもらっただけではない。「Joy=喜び」「Work=働く」「Center=中心」。まさに「喜びを働きの中心に」という願いがこもっている。決してワーカホリックを推奨するわけではないが、やはり仕事は楽しい方がいい。
就労移行支援というのは表面的には「就職がゴール地点」だ。しかし、所詮は「表面的なゴール」に過ぎない。実際のところ「就職はスタート地点」にすぎないし、さらに言えば「人生の経過点」にしか過ぎない。地点の位置はともかくとして、長く働いていくためには「楽しい」または「心地よい」と思えることが非常に重要だと思う。
私は「仕事を趣味にするくらい」に仕事を好きになれるという体験をしてほしいと思っている。もちろん強制ではない。しかし、それくらいに仕事が面白くなったら「サザエさん症候群」なんてものは世の中から消える。土日を過ごしていると平日が待ち遠しくなる。そんな人生の一時期があってもいいんじゃないだろうか。
仕事が好きになるというのは、ある意味で才能だ。どんな仕事についてもやはり「イヤなこと」もあったりする。しかしそれを上回る「喜び」を感じることができるのなら、その仕事は続けていける。そういうマインドで仕事ができるのならば、もはや就労を継続させるための支援に頼らなくてもよくなる。私はそういうマインドをこそ獲得して欲しいと思う。
もちろん仕事だから厳しい状況もストレスも体験するはずだ。なぜなら当然ながら納期もあるし、品質によってはイヤになるほどのやり直しもある。それでも好きな仕事というのが天職なんだと思う。そしてその天職を見つけたり、逆に天職を自ら作り出すのもひとつの才能と言ってもいい。
これからジョイワークセンターを巣立とうとしている方々が、最終的にどのような道を選ぶかは分からない。しかし、人生の中で「きつかったけど、楽しいと思える仕事を体験した」と思えること自体が大きな財産だと思う。本気で自分で考えて、本気で仕事を楽しんだという「自信」や「実績」はウソをつかない。場所は違えども「仕事を楽しむスキル」は活きると信じている。
ちなみに、ジョイワークセンターはいろんな連携を積極的にしていく。一般企業とも、福祉施設とも、そして同業者とも。私はジョイワークセンターの可能性に自信を持っている。と、同時に、ジョイワークセンターだけではすべてのパーソナリティにご満足いただけないという自覚もあるからだ。
ジョイワークセンターでは、個人個人がなるべくマニュアルに依存しない方向性を推し進めている。むしろマニュアルの本質を掴んだ上で、マニュアルの改善ができる方向性を指向している。これはものすごく忍耐力がいるし時間もかかる。しかし、個人個人の発想を社会に活かすための創造性と自己解決力を最大の柱にしている。
一方、マニュアル通りの作業を厳しくたたき込んで、立派な社会人を形成する方法論もある。個人的には、これはこれで大きな価値があると思っている。いわゆる昔の「戸塚ヨットスクール」方式だ。おそらくこの方式でなければうまくいかない人もたくさんいるだろうと思う。だからその価値を最大限に認めた上で、ジョイワークセンターとしては別の路線を歩みたいと思っている。
個人個人の個性が違うことを認めるのと同じレベルで、支援するさまざまな団体のポリシーの違いも認めて讃え合える関係がいいと思っている。ジョイワークセンターはジョイワークセンターの色でやっていく。しかし、横の連携を密にすることでお互いの特色を補完しあう関係になれる。つまり障碍を持つ人が就職を考えたときに、広い選択肢を持つことができるようになるのだ。
ジョイワークセンターは今年もガンガン飛ばしていくつもりだ。そして、あえて誤解を恐れずに書きたい。「障碍者マーケット」自体の発展の一部となることを。もはやタブーではなく「受験生マーケット」や「育児マーケット」と同列に普通に語られるようになることを。そして、次のフェーズでは「障碍者」という区分で語られなくなる日を目指したい。
今は、障碍を持っている人のスペックを社会にアピールするフェーズだと思っている。これが浸透しないと、人材の本質的価値が社会に伝わらない。しかし、そのフェーズが十分な形で社会に広まったら、すでに「障碍」区分は関係なくなる。どんな人でも本質的な能力によって適正な社会貢献ができるようになるだろう。
これからそんな世の中を作るつもりだ。どうぞご期待いただきたい!
参考:ジョイワークセンター
私は今、代々木のジョイコンサルティング株式会社において、障碍者の就労移行支援センター「ジョイワークセンター」の運営に携わっている。私も含んだ多くの夢の結晶として去年の10月から稼働しているセンターで、日に日に利用希望者が増えている。私はこのセンターを通して「夢を持った働き方」を経験して欲しいし、そこから巣立つ人材には社会の夢を作ってもらいたい。
「そんなこと無理だ、障碍のない人でも難しいのにデタラメもほどほどにしろ!」とお叱りを受けそうだが、この点において私はド真剣だ。「障碍者なんだから就職できるだけでもラッキーだと思わないと」などと妥協したくない。夢を持って仕事をする権利は誰にだってある。障碍を持っていたら夢を持って働いてはいけないとは誰が決めたのか?
これは私の個人的な思い入れだが、「ジョイワークセンター」という名称は、単に「ジョイコンサルティング株式会社」から「ジョイ」の文字をもらっただけではない。「Joy=喜び」「Work=働く」「Center=中心」。まさに「喜びを働きの中心に」という願いがこもっている。決してワーカホリックを推奨するわけではないが、やはり仕事は楽しい方がいい。
就労移行支援というのは表面的には「就職がゴール地点」だ。しかし、所詮は「表面的なゴール」に過ぎない。実際のところ「就職はスタート地点」にすぎないし、さらに言えば「人生の経過点」にしか過ぎない。地点の位置はともかくとして、長く働いていくためには「楽しい」または「心地よい」と思えることが非常に重要だと思う。
私は「仕事を趣味にするくらい」に仕事を好きになれるという体験をしてほしいと思っている。もちろん強制ではない。しかし、それくらいに仕事が面白くなったら「サザエさん症候群」なんてものは世の中から消える。土日を過ごしていると平日が待ち遠しくなる。そんな人生の一時期があってもいいんじゃないだろうか。
仕事が好きになるというのは、ある意味で才能だ。どんな仕事についてもやはり「イヤなこと」もあったりする。しかしそれを上回る「喜び」を感じることができるのなら、その仕事は続けていける。そういうマインドで仕事ができるのならば、もはや就労を継続させるための支援に頼らなくてもよくなる。私はそういうマインドをこそ獲得して欲しいと思う。
もちろん仕事だから厳しい状況もストレスも体験するはずだ。なぜなら当然ながら納期もあるし、品質によってはイヤになるほどのやり直しもある。それでも好きな仕事というのが天職なんだと思う。そしてその天職を見つけたり、逆に天職を自ら作り出すのもひとつの才能と言ってもいい。
これからジョイワークセンターを巣立とうとしている方々が、最終的にどのような道を選ぶかは分からない。しかし、人生の中で「きつかったけど、楽しいと思える仕事を体験した」と思えること自体が大きな財産だと思う。本気で自分で考えて、本気で仕事を楽しんだという「自信」や「実績」はウソをつかない。場所は違えども「仕事を楽しむスキル」は活きると信じている。
ちなみに、ジョイワークセンターはいろんな連携を積極的にしていく。一般企業とも、福祉施設とも、そして同業者とも。私はジョイワークセンターの可能性に自信を持っている。と、同時に、ジョイワークセンターだけではすべてのパーソナリティにご満足いただけないという自覚もあるからだ。
ジョイワークセンターでは、個人個人がなるべくマニュアルに依存しない方向性を推し進めている。むしろマニュアルの本質を掴んだ上で、マニュアルの改善ができる方向性を指向している。これはものすごく忍耐力がいるし時間もかかる。しかし、個人個人の発想を社会に活かすための創造性と自己解決力を最大の柱にしている。
一方、マニュアル通りの作業を厳しくたたき込んで、立派な社会人を形成する方法論もある。個人的には、これはこれで大きな価値があると思っている。いわゆる昔の「戸塚ヨットスクール」方式だ。おそらくこの方式でなければうまくいかない人もたくさんいるだろうと思う。だからその価値を最大限に認めた上で、ジョイワークセンターとしては別の路線を歩みたいと思っている。
個人個人の個性が違うことを認めるのと同じレベルで、支援するさまざまな団体のポリシーの違いも認めて讃え合える関係がいいと思っている。ジョイワークセンターはジョイワークセンターの色でやっていく。しかし、横の連携を密にすることでお互いの特色を補完しあう関係になれる。つまり障碍を持つ人が就職を考えたときに、広い選択肢を持つことができるようになるのだ。
ジョイワークセンターは今年もガンガン飛ばしていくつもりだ。そして、あえて誤解を恐れずに書きたい。「障碍者マーケット」自体の発展の一部となることを。もはやタブーではなく「受験生マーケット」や「育児マーケット」と同列に普通に語られるようになることを。そして、次のフェーズでは「障碍者」という区分で語られなくなる日を目指したい。
今は、障碍を持っている人のスペックを社会にアピールするフェーズだと思っている。これが浸透しないと、人材の本質的価値が社会に伝わらない。しかし、そのフェーズが十分な形で社会に広まったら、すでに「障碍」区分は関係なくなる。どんな人でも本質的な能力によって適正な社会貢献ができるようになるだろう。
これからそんな世の中を作るつもりだ。どうぞご期待いただきたい!
参考:ジョイワークセンター
2010年12月5日日曜日
障碍者とスタートレック
SF好きな人なら知っている作品かもしれないが、私は「スタートレック」というSFドラマが好きだ。緻密に練り上げられた世界観も魅力的なのだが、「SF」という舞台を使ってタブーになりそうな社会風刺もきっちり押さえているところが特に好きだ。
聞くところによると「架空の惑星の話だから」という建前で、アメリカ国内に存在する深刻な問題もさらっと描写できているのだとか。そういえば「裁判前に死刑が確定している惑星」なんていうのもあったが、実際に地球上に存在する某国を彷彿とさせる。
私にとって「スタートレック」は人間関係の教科書のようでもある。
時に理論を飛び抜けて感情を優先してしまう地球人と、感情を持たずにどんな時でも理論を優先させようとする異星人が、同じ宇宙船に乗って長い時間を過ごす。他にも、戦闘が最優先の異星人もいるし、商売が最優先で男尊女卑を文化として持つ異星人もいたりする。
当然、いろんな対立が起こる。たとえば「感情vs理論」という構図。仮にここでは「理論星人」と呼ぶ。この「理論星人」はとにかく空気を読まない。ただ、その時に正しいと感じたことをそのまま口にする。クルーの仲間が死んでも埋葬よりも現実的な対応を優先する。
当然、感情的になった地球人クルーは彼のことを、「君の『理論』は聞き飽きた!」と責め立てる。しかし落ち着いてストーリーを見ていれば、実は「理論星人」の方が正しかったりする。「感情を持つことが恥とされている文化」を持つだけに、感情を持つ地球人の間では浮いてしまうことも多い。
しかし、感情に流されない彼の存在によって地球人クルー達も何度か命拾いをする。だから、感情的なものがあまり通じないとはいえ、理論を優先する彼の居場所はちゃんと確保されている。他の異星人についても、最初は衝突が強調され、そこから融和し、存在価値に気づいていく過程がストーリーに描かれている。
スタートレックを見ていて不意にいつもの仕事と脳内で結びついた。「理論星人」というのは、ある種の発達障碍の人たちを描いているんじゃないかと。たまに感情を害することを言うかもしれないが、それは事実から目をそらすことを防止してくれる。感情に流されずに現実的な方向性を示唆してくれる。
スタートレックの面白いところは、既存の常識の外側にいるからといって、多くの場合、すぐにその存在性を排斥しないことだ。もちろん決定的な文化の違いにイライラしたりもする。そのあたり、たっぷりと異星人とのストレスを描写している。しかし長い時間をかけて融和していく。そしてお互いの長所を認め合っていく。
「たかがSF」といえば「たかがSF」なのだが、スタートレックを見ているとユニバーサルな気分になってくる。誰にも存在意義があるんだよなあと。私が生きている時代に宇宙旅行は無理かもしれないが、それでも人生の宇宙船ではたくさんのクルーと出会うだろう。できるだけ多くのクルーと人生を豊かに旅行したいと思う。
聞くところによると「架空の惑星の話だから」という建前で、アメリカ国内に存在する深刻な問題もさらっと描写できているのだとか。そういえば「裁判前に死刑が確定している惑星」なんていうのもあったが、実際に地球上に存在する某国を彷彿とさせる。
私にとって「スタートレック」は人間関係の教科書のようでもある。
時に理論を飛び抜けて感情を優先してしまう地球人と、感情を持たずにどんな時でも理論を優先させようとする異星人が、同じ宇宙船に乗って長い時間を過ごす。他にも、戦闘が最優先の異星人もいるし、商売が最優先で男尊女卑を文化として持つ異星人もいたりする。
当然、いろんな対立が起こる。たとえば「感情vs理論」という構図。仮にここでは「理論星人」と呼ぶ。この「理論星人」はとにかく空気を読まない。ただ、その時に正しいと感じたことをそのまま口にする。クルーの仲間が死んでも埋葬よりも現実的な対応を優先する。
当然、感情的になった地球人クルーは彼のことを、「君の『理論』は聞き飽きた!」と責め立てる。しかし落ち着いてストーリーを見ていれば、実は「理論星人」の方が正しかったりする。「感情を持つことが恥とされている文化」を持つだけに、感情を持つ地球人の間では浮いてしまうことも多い。
しかし、感情に流されない彼の存在によって地球人クルー達も何度か命拾いをする。だから、感情的なものがあまり通じないとはいえ、理論を優先する彼の居場所はちゃんと確保されている。他の異星人についても、最初は衝突が強調され、そこから融和し、存在価値に気づいていく過程がストーリーに描かれている。
スタートレックを見ていて不意にいつもの仕事と脳内で結びついた。「理論星人」というのは、ある種の発達障碍の人たちを描いているんじゃないかと。たまに感情を害することを言うかもしれないが、それは事実から目をそらすことを防止してくれる。感情に流されずに現実的な方向性を示唆してくれる。
スタートレックの面白いところは、既存の常識の外側にいるからといって、多くの場合、すぐにその存在性を排斥しないことだ。もちろん決定的な文化の違いにイライラしたりもする。そのあたり、たっぷりと異星人とのストレスを描写している。しかし長い時間をかけて融和していく。そしてお互いの長所を認め合っていく。
「たかがSF」といえば「たかがSF」なのだが、スタートレックを見ているとユニバーサルな気分になってくる。誰にも存在意義があるんだよなあと。私が生きている時代に宇宙旅行は無理かもしれないが、それでも人生の宇宙船ではたくさんのクルーと出会うだろう。できるだけ多くのクルーと人生を豊かに旅行したいと思う。
2010年10月6日水曜日
不完全を楽しむ
世の中にはいろんな偶然があって、いろんな人生を辿る人がいる。生まれつきの顔や体の違いももちろんのこと、走る速さや持久力などの身体能力。記憶力や頭の回転の早さなど、さまざまな違いがある。その違いの中には、視力の悪さや記憶力の悪さなども含まれている。
正直なところ、私自身も記憶力のよい部類ではない。人の名前はよくど忘れしてしまうし、わりとうっかりをやらかしてしまいやすい。
会ってから日の浅い人を誰かに紹介しようとして、名字をど忘れしてしまうと、とんでもなく気まずい。というか最近ではさっさと謝ってしまう。それから初めて会った人の顔を忘れてしまって、名前と顔が一致しないこともままある。
最近では顔を忘れてしまわないように、先方のお許しを得て顔写真を撮らせていただくこともある。顔写真にお名前を添えて、たまの休日に出会った方々の顔写真と名前を眺める。これでだいたいの場合は解決する。いつも会っているような気になってくるからだ。
こんなことも障碍といえば障碍なのかもしれない。が、実際には自らのアイデアによるアシストで致命的に破綻をきたすことはない。私にとって自分の足りないところをアイデアによって補うことは、視力の悪い人が眼鏡やコンタクトレンズを使うのと同じ感覚だ。
私は連続する単調作業が大の苦手だが、これについてもIT関連の手段を活用することによって、作業の遅さや正確性を補うためのシステムを開発して解決することが多い。
私はあらゆる意味において完璧ではない。ただ、その不完全さをアイデアで補うことを楽しんでいるフシがある。たとえばスケジュール管理が苦手であれば、それを補完するためのツールやシステムによって解決しようとする。
異論を唱える人もいるかもしれないが、記憶力などの基礎能力を鍛えようとする前にアイデアに走る。なぜなら苦手なことを一生懸命に克服しようとする時間などないからだ。ものすごい訓練をして能力的な不完全を克服したとしても、いずれにせよそれはマイナスからの出発だ。
もちろん訓練によって不完全を克服することを否定しているわけではない。苦手なことを克服しようとすることには大きな意義があるし、努力するということ自体すばらしいことだ。
ただ、私の場合はそれを「楽しく」「違う方向から」解決したいという欲求があるだけだ。私が「不完全」にぶつかった時は常にこう考える。「もしも、この不完全が一生どうにもならないと仮定したら、どのような方法で状況を改善することができるのだろうか?」と。
アイデアを考えるためにいろんな不完全パターンを検証しているうちに、幸いにもそれがトレーニングになってしまい不完全が緩和されてしまうこともある。しかし、世の中には「障碍」という名の物理的な要因で状況が改善できないケースもある。
そう考えると、やはり私はアイデアによる解決がしたくなる。自分の不完全をシステムによって改善することができるのだとしたら、私と同じ状態で悩む人にとっても面白いことができるからだ。
おそらく私が記憶力と頭の回転力に困っていなければ、おそらくさまざまなアイデアを考える必要もなかっただろう。しかし、実際には私自身にはさまざまな不完全がある。さらに拡張して考えてみれば、社会全体が抱える不完全というものもある。
そういうものを知ると私はどうにもウズウズしてしまう。どうやったらその状況をラクにできるのだろうか。私はラクをするためにどんな苦労もいとわない。もちろんそこには労力コストと効果を天秤にかけることを忘れない。苦労しまくって効果が薄ければ全体として失敗だから。
いろんな不完全がいろんな人にある。身体的なものであったり人格的なものであったりさまざまだ。「当事者の気持ちになってみろ!」と怒りたくなる種類の不完全を抱えている人もいるだろう。
それでも私はその環境を改善するための「楽しみ」を見いだせたら幸せだと主張したい。それは「あきらめないこと」だから。あきらめない限り必ず心の中の炎は燃え続けるのだから。心の中の炎が燃えているということは、それだけで幸せなんだと思う。
人間である限り、健康だろうが、病気だろうが、なんだろうが、いずれは人生に終わりがくる。「未来に夢を持て」なんていわれても、遠すぎる未来を見つめたら「死」が待っているだけだ。
人間、せいぜい、明日、明後日、一週間後、一ヶ月後、半年後、一年後・・・程度の未来を見つめながら、今を全速力で燃えながら生きていくのがいいような気がしている。過去にこだわることも、未来にこだわることも意味がない。今、生きているのだから、とにかく燃えて生きる幸せを感じた方がいい。
そんなことを思いつつ、私は、今を燃えながら生きている。
もちろん、ほどほどに手を抜きながら。
ラクができない人は、人をラクにすることもできないだろうから。
私はいろんな人をラクにしたい。
すこしずつでいいから。
正直なところ、私自身も記憶力のよい部類ではない。人の名前はよくど忘れしてしまうし、わりとうっかりをやらかしてしまいやすい。
会ってから日の浅い人を誰かに紹介しようとして、名字をど忘れしてしまうと、とんでもなく気まずい。というか最近ではさっさと謝ってしまう。それから初めて会った人の顔を忘れてしまって、名前と顔が一致しないこともままある。
最近では顔を忘れてしまわないように、先方のお許しを得て顔写真を撮らせていただくこともある。顔写真にお名前を添えて、たまの休日に出会った方々の顔写真と名前を眺める。これでだいたいの場合は解決する。いつも会っているような気になってくるからだ。
こんなことも障碍といえば障碍なのかもしれない。が、実際には自らのアイデアによるアシストで致命的に破綻をきたすことはない。私にとって自分の足りないところをアイデアによって補うことは、視力の悪い人が眼鏡やコンタクトレンズを使うのと同じ感覚だ。
私は連続する単調作業が大の苦手だが、これについてもIT関連の手段を活用することによって、作業の遅さや正確性を補うためのシステムを開発して解決することが多い。
私はあらゆる意味において完璧ではない。ただ、その不完全さをアイデアで補うことを楽しんでいるフシがある。たとえばスケジュール管理が苦手であれば、それを補完するためのツールやシステムによって解決しようとする。
異論を唱える人もいるかもしれないが、記憶力などの基礎能力を鍛えようとする前にアイデアに走る。なぜなら苦手なことを一生懸命に克服しようとする時間などないからだ。ものすごい訓練をして能力的な不完全を克服したとしても、いずれにせよそれはマイナスからの出発だ。
もちろん訓練によって不完全を克服することを否定しているわけではない。苦手なことを克服しようとすることには大きな意義があるし、努力するということ自体すばらしいことだ。
ただ、私の場合はそれを「楽しく」「違う方向から」解決したいという欲求があるだけだ。私が「不完全」にぶつかった時は常にこう考える。「もしも、この不完全が一生どうにもならないと仮定したら、どのような方法で状況を改善することができるのだろうか?」と。
アイデアを考えるためにいろんな不完全パターンを検証しているうちに、幸いにもそれがトレーニングになってしまい不完全が緩和されてしまうこともある。しかし、世の中には「障碍」という名の物理的な要因で状況が改善できないケースもある。
そう考えると、やはり私はアイデアによる解決がしたくなる。自分の不完全をシステムによって改善することができるのだとしたら、私と同じ状態で悩む人にとっても面白いことができるからだ。
おそらく私が記憶力と頭の回転力に困っていなければ、おそらくさまざまなアイデアを考える必要もなかっただろう。しかし、実際には私自身にはさまざまな不完全がある。さらに拡張して考えてみれば、社会全体が抱える不完全というものもある。
そういうものを知ると私はどうにもウズウズしてしまう。どうやったらその状況をラクにできるのだろうか。私はラクをするためにどんな苦労もいとわない。もちろんそこには労力コストと効果を天秤にかけることを忘れない。苦労しまくって効果が薄ければ全体として失敗だから。
いろんな不完全がいろんな人にある。身体的なものであったり人格的なものであったりさまざまだ。「当事者の気持ちになってみろ!」と怒りたくなる種類の不完全を抱えている人もいるだろう。
それでも私はその環境を改善するための「楽しみ」を見いだせたら幸せだと主張したい。それは「あきらめないこと」だから。あきらめない限り必ず心の中の炎は燃え続けるのだから。心の中の炎が燃えているということは、それだけで幸せなんだと思う。
人間である限り、健康だろうが、病気だろうが、なんだろうが、いずれは人生に終わりがくる。「未来に夢を持て」なんていわれても、遠すぎる未来を見つめたら「死」が待っているだけだ。
人間、せいぜい、明日、明後日、一週間後、一ヶ月後、半年後、一年後・・・程度の未来を見つめながら、今を全速力で燃えながら生きていくのがいいような気がしている。過去にこだわることも、未来にこだわることも意味がない。今、生きているのだから、とにかく燃えて生きる幸せを感じた方がいい。
そんなことを思いつつ、私は、今を燃えながら生きている。
もちろん、ほどほどに手を抜きながら。
ラクができない人は、人をラクにすることもできないだろうから。
私はいろんな人をラクにしたい。
すこしずつでいいから。
2010年9月29日水曜日
忘れたくない初心
私がこの業界に属するようになってから、今も忘れたくない初心がある。
それは「弱者を守る」という意識を持ちたないこと。「弱者を守る」なんて意識そのものが傲慢な気がする。しまいには「わざわざ○○に○○をしてやってるんだ!」なんて勘違いをしそうだ。
弱者は弱者として認識するからこそ「弱者」。弱者を助けるという発想には「上下関係」がある。弱者だと思われている人の中に眠る「強さ」を掘り起こすことが重要ではないか。そうでなくては「弱者」はいつまでたっても弱者のままだから。
たまに障碍者に対して「あの人は○○ができないから、○○の業種はあきらめてもらいましょう」とか「まだ高望みしているから就職は無理だ。もう少し希望を下げてもらわないと困る」なんて会話を聞くとさびしい気分になる。
夢を持つことやチャレンジする気持ちは何よりも大事だと思う。でも、障碍を持っているというだけで「夢を見るなんてとんでもない」という空気感があるような気がする。そして「掃除・軽作業・事務」のトライアングルをオススメされる。
それ以外の分野に進もうとすると、医者に止められたり、福祉関係の職員に止められたりもする。夢を完全に失っていたり、自分に自信がなかったり、そして素直だったりすると、いとも簡単に自分の夢を捨ててしまうことになる。
「○○の仕事だったら、あなたにもできると思いますよ。」という「上から目線」のアドバイスには問題があると思う。「『この人よりも上』の自分のアドバイスはすべて正しいはずだ。」という思いが見え隠れしてしまう。
人、それぞれ違う。障碍を持っていようがいまいが同じことだ。誰だって初めてのことに挑戦するにはリスクがあるし、その道で成功するという根拠も保証もない。障碍者で難しいのは周囲の影響力が大きいことだ。
周囲にいる影響力のある人の価値観の上限でしか生きられない人生は息苦しい。今、私は障碍を持っている人の人生に伴走する立場だ。もしかすると彼らの生き方に対して一定の影響力を持っている可能性が高いと思う。
だからこそ自分の価値観を押しつけることにならないように注意していたい。えげつない書き方になってしまうが、『自分よりも弱い立場』の人間を自分の周りに集めると、相対的にいとも簡単に『権力のある王様』になれる。
それじゃいけない。
もちろん障碍の程度というのはあるが、基本的には挑戦する気持ちを捨ててはいけないし捨てさせてはいけない。挑戦する前にあきらめさせてもいけないとも思う。もちろん壁にぶつかればショックを受けるだろう。
ショックを受けたら二度と立ち上がれない・・・と考えてしまうかもしれない。精神の障碍を持つ人に精神的なショックを与えてはいけない。たしかにそういう一面もあるかもしれない。ただ一方で人生から完全にショックを取り除くことはできない。
ショックとなる要因を社会から軽減させることも重要だが、ショックに対する耐性を養っていくことも一方で重要だ。「配慮」と「過保護」は本質的に異なる。人生に必要なショックというのは確実に存在する。ショックを受けながら人は成長していくのだから。
多くのショックを乗り越えて「弱者」は弱者でなくなっていくと思うのだ。だから、私は弱者を守らない。弱者とならないように「心の芯」を見守りながら育てていく立場でありたいと思っている。
考えてみれば誰にだって「弱さ」があるではないか。だからこそ、自分の中の「強さ」に気づくことだってある。「弱いところだけ」をクローズアップするから「弱者」という言葉が生まれる。たぶん弱い分だけ強さがあるんだと思う。
それは「弱者を守る」という意識を持ちたないこと。「弱者を守る」なんて意識そのものが傲慢な気がする。しまいには「わざわざ○○に○○をしてやってるんだ!」なんて勘違いをしそうだ。
弱者は弱者として認識するからこそ「弱者」。弱者を助けるという発想には「上下関係」がある。弱者だと思われている人の中に眠る「強さ」を掘り起こすことが重要ではないか。そうでなくては「弱者」はいつまでたっても弱者のままだから。
たまに障碍者に対して「あの人は○○ができないから、○○の業種はあきらめてもらいましょう」とか「まだ高望みしているから就職は無理だ。もう少し希望を下げてもらわないと困る」なんて会話を聞くとさびしい気分になる。
夢を持つことやチャレンジする気持ちは何よりも大事だと思う。でも、障碍を持っているというだけで「夢を見るなんてとんでもない」という空気感があるような気がする。そして「掃除・軽作業・事務」のトライアングルをオススメされる。
それ以外の分野に進もうとすると、医者に止められたり、福祉関係の職員に止められたりもする。夢を完全に失っていたり、自分に自信がなかったり、そして素直だったりすると、いとも簡単に自分の夢を捨ててしまうことになる。
「○○の仕事だったら、あなたにもできると思いますよ。」という「上から目線」のアドバイスには問題があると思う。「『この人よりも上』の自分のアドバイスはすべて正しいはずだ。」という思いが見え隠れしてしまう。
人、それぞれ違う。障碍を持っていようがいまいが同じことだ。誰だって初めてのことに挑戦するにはリスクがあるし、その道で成功するという根拠も保証もない。障碍者で難しいのは周囲の影響力が大きいことだ。
周囲にいる影響力のある人の価値観の上限でしか生きられない人生は息苦しい。今、私は障碍を持っている人の人生に伴走する立場だ。もしかすると彼らの生き方に対して一定の影響力を持っている可能性が高いと思う。
だからこそ自分の価値観を押しつけることにならないように注意していたい。えげつない書き方になってしまうが、『自分よりも弱い立場』の人間を自分の周りに集めると、相対的にいとも簡単に『権力のある王様』になれる。
それじゃいけない。
もちろん障碍の程度というのはあるが、基本的には挑戦する気持ちを捨ててはいけないし捨てさせてはいけない。挑戦する前にあきらめさせてもいけないとも思う。もちろん壁にぶつかればショックを受けるだろう。
ショックを受けたら二度と立ち上がれない・・・と考えてしまうかもしれない。精神の障碍を持つ人に精神的なショックを与えてはいけない。たしかにそういう一面もあるかもしれない。ただ一方で人生から完全にショックを取り除くことはできない。
ショックとなる要因を社会から軽減させることも重要だが、ショックに対する耐性を養っていくことも一方で重要だ。「配慮」と「過保護」は本質的に異なる。人生に必要なショックというのは確実に存在する。ショックを受けながら人は成長していくのだから。
多くのショックを乗り越えて「弱者」は弱者でなくなっていくと思うのだ。だから、私は弱者を守らない。弱者とならないように「心の芯」を見守りながら育てていく立場でありたいと思っている。
考えてみれば誰にだって「弱さ」があるではないか。だからこそ、自分の中の「強さ」に気づくことだってある。「弱いところだけ」をクローズアップするから「弱者」という言葉が生まれる。たぶん弱い分だけ強さがあるんだと思う。
2010年8月24日火曜日
WRAPでストレスフリーな就労環境
WRAPというメソッドがある。アメリカで精神障碍の現場で編み出されたもので、「元気回復行動プラン」とも呼ばれている。ITエンジニア的な視点で表現すると「高度に洗練された自己回復のための危機管理技法」といえそうだ。
端的に表現してしまうと語弊があるかもしれないが、「自分自身の攻略本」を自分で作るスキルという感じだ。誰でも持っている「ダークな自分」をどうやってやっつけるか・・・ということを「あらかじめ考えておく」ということが大きなポイントだ。
私自身を例にとって考えてみる。スペースと時間の制約上、それぞれの例を2点に絞って紹介したい。
(1)良い状態の時の自分【自分にとっての標準状態を知る】
→すべてのことが「うまくいく」ような気分になる。
→関わるすべての人に感謝できるようになっている。
(2)毎日するといいこと【いい状態になれる行動を知る】
→少なくとも5時間以上は睡眠を取ること。
→ポジティブな話題で明るく誰かと盛り上がる。
(3)気分が悪くなる引き金【状態が悪くなるきっかけを知る】
→「常識」を旗印にして頭ごなしに否定されること。
→選択の自由がなく強要されていると感じたとき。
(4)引き金による注意サイン【危機発生の兆しを知る】
→注意が特定のことに偏ってしまい視野が狭くなる。
→脳内の血流が高まり「めまい」に近い感覚がある。
(5)調子が悪くなっているサイン【危機発生後の状況検知】
→引き金となったシーンを何度も思い出してしまう。
→他の人たちも自分から離れていくような被害妄想を抱く。
(6)第三者に「普段の自分」を伝える【通常ステータスの通知】
→あまり感情的にならないか、ポジティブな感情を示す。
→できうる限りすべてのことをポジティブにとらえようとする。
(6)第三者に「異変後の自分」を伝える【異常ステータスの通知】
→会話中は声のトーンが大きく高くなり表情が引きつってくる
→会話しない時は表情が無表情に近くなり極端に無口になる
(7)第三者に「してほしいこと」を伝える【異常対処方法の通知】
→「ちょっと休憩にしませんか?」とインターバルをいれてもらう。
→「意見を強要しているわけでない」という意図を伝えてもらう。
(8)必要な投薬や主治医に関する情報【危機管理情報の通知】
★私は投薬も通院もしていないので例示できない
望む処置方法や病院などを通知可能。
逆に望まない処置方法や病院なども通知可能。
WRAPについてはまだまだ研究中のため、解釈が正しくない可能性もある。それでも「第三者を意識した危機管理マニュアル」になっている点は非常に興味深い。特に自分が制御不能になった時のシミュレーションは有効だろう。
今のところ、一般的な職場でWRAPを取り入れている例をあまり知らないが、障碍の有無に関わらず積極的に就労環境に取り入れていけば、何かしらの変化が見られるようになると考えている。
なお、今回のエントリーを書くにあたっては、千葉「らっぴん」で入手させていただいた、「元気回復行動プラン WRAP」(道具箱・刊)という赤い本を参考にした。
※一般書店で販売されていないので、ここから注文するとよいだろう。
この赤い本だけでも十分にWRAPの魅力を知ることができるが、本当に実践しようと思ったらWRAPのイベントに参加するのがいいかもしれない。私もいずれ参加するつもりだ。
このメソッドが企業活動にどのようなメリットを与えるのか。興味は尽きない。
端的に表現してしまうと語弊があるかもしれないが、「自分自身の攻略本」を自分で作るスキルという感じだ。誰でも持っている「ダークな自分」をどうやってやっつけるか・・・ということを「あらかじめ考えておく」ということが大きなポイントだ。
私自身を例にとって考えてみる。スペースと時間の制約上、それぞれの例を2点に絞って紹介したい。
(1)良い状態の時の自分【自分にとっての標準状態を知る】
→すべてのことが「うまくいく」ような気分になる。
→関わるすべての人に感謝できるようになっている。
(2)毎日するといいこと【いい状態になれる行動を知る】
→少なくとも5時間以上は睡眠を取ること。
→ポジティブな話題で明るく誰かと盛り上がる。
(3)気分が悪くなる引き金【状態が悪くなるきっかけを知る】
→「常識」を旗印にして頭ごなしに否定されること。
→選択の自由がなく強要されていると感じたとき。
(4)引き金による注意サイン【危機発生の兆しを知る】
→注意が特定のことに偏ってしまい視野が狭くなる。
→脳内の血流が高まり「めまい」に近い感覚がある。
(5)調子が悪くなっているサイン【危機発生後の状況検知】
→引き金となったシーンを何度も思い出してしまう。
→他の人たちも自分から離れていくような被害妄想を抱く。
(6)第三者に「普段の自分」を伝える【通常ステータスの通知】
→あまり感情的にならないか、ポジティブな感情を示す。
→できうる限りすべてのことをポジティブにとらえようとする。
(6)第三者に「異変後の自分」を伝える【異常ステータスの通知】
→会話中は声のトーンが大きく高くなり表情が引きつってくる
→会話しない時は表情が無表情に近くなり極端に無口になる
(7)第三者に「してほしいこと」を伝える【異常対処方法の通知】
→「ちょっと休憩にしませんか?」とインターバルをいれてもらう。
→「意見を強要しているわけでない」という意図を伝えてもらう。
(8)必要な投薬や主治医に関する情報【危機管理情報の通知】
★私は投薬も通院もしていないので例示できない
望む処置方法や病院などを通知可能。
逆に望まない処置方法や病院なども通知可能。
WRAPについてはまだまだ研究中のため、解釈が正しくない可能性もある。それでも「第三者を意識した危機管理マニュアル」になっている点は非常に興味深い。特に自分が制御不能になった時のシミュレーションは有効だろう。
今のところ、一般的な職場でWRAPを取り入れている例をあまり知らないが、障碍の有無に関わらず積極的に就労環境に取り入れていけば、何かしらの変化が見られるようになると考えている。
なお、今回のエントリーを書くにあたっては、千葉「らっぴん」で入手させていただいた、「元気回復行動プラン WRAP」(道具箱・刊)という赤い本を参考にした。
※一般書店で販売されていないので、ここから注文するとよいだろう。
この赤い本だけでも十分にWRAPの魅力を知ることができるが、本当に実践しようと思ったらWRAPのイベントに参加するのがいいかもしれない。私もいずれ参加するつもりだ。
このメソッドが企業活動にどのようなメリットを与えるのか。興味は尽きない。
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