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2010年8月24日火曜日

WRAPでストレスフリーな就労環境

WRAPというメソッドがある。アメリカで精神障碍の現場で編み出されたもので、「元気回復行動プラン」とも呼ばれている。ITエンジニア的な視点で表現すると「高度に洗練された自己回復のための危機管理技法」といえそうだ。

端的に表現してしまうと語弊があるかもしれないが、「自分自身の攻略本」を自分で作るスキルという感じだ。誰でも持っている「ダークな自分」をどうやってやっつけるか・・・ということを「あらかじめ考えておく」ということが大きなポイントだ。

私自身を例にとって考えてみる。スペースと時間の制約上、それぞれの例を2点に絞って紹介したい。

(1)良い状態の時の自分【自分にとっての標準状態を知る】
 →すべてのことが「うまくいく」ような気分になる。
 →関わるすべての人に感謝できるようになっている。

(2)毎日するといいこと【いい状態になれる行動を知る】
 →少なくとも5時間以上は睡眠を取ること。
 →ポジティブな話題で明るく誰かと盛り上がる。

(3)気分が悪くなる引き金【状態が悪くなるきっかけを知る】
 →「常識」を旗印にして頭ごなしに否定されること。
 →選択の自由がなく強要されていると感じたとき。

(4)引き金による注意サイン【危機発生の兆しを知る】
 →注意が特定のことに偏ってしまい視野が狭くなる。
 →脳内の血流が高まり「めまい」に近い感覚がある。

(5)調子が悪くなっているサイン【危機発生後の状況検知】
 →引き金となったシーンを何度も思い出してしまう。
 →他の人たちも自分から離れていくような被害妄想を抱く。

(6)第三者に「普段の自分」を伝える【通常ステータスの通知】
 →あまり感情的にならないか、ポジティブな感情を示す。
 →できうる限りすべてのことをポジティブにとらえようとする。

(6)第三者に「異変後の自分」を伝える【異常ステータスの通知】
 →会話中は声のトーンが大きく高くなり表情が引きつってくる
 →会話しない時は表情が無表情に近くなり極端に無口になる

(7)第三者に「してほしいこと」を伝える【異常対処方法の通知】
 →「ちょっと休憩にしませんか?」とインターバルをいれてもらう。
 →「意見を強要しているわけでない」という意図を伝えてもらう。

(8)必要な投薬や主治医に関する情報【危機管理情報の通知】
 ★私は投薬も通院もしていないので例示できない
 望む処置方法や病院などを通知可能。
 逆に望まない処置方法や病院なども通知可能。

WRAPについてはまだまだ研究中のため、解釈が正しくない可能性もある。それでも「第三者を意識した危機管理マニュアル」になっている点は非常に興味深い。特に自分が制御不能になった時のシミュレーションは有効だろう。

今のところ、一般的な職場でWRAPを取り入れている例をあまり知らないが、障碍の有無に関わらず積極的に就労環境に取り入れていけば、何かしらの変化が見られるようになると考えている。

なお、今回のエントリーを書くにあたっては、千葉「らっぴん」で入手させていただいた、「元気回復行動プラン WRAP」(道具箱・刊)という赤い本を参考にした。

※一般書店で販売されていないので、ここから注文するとよいだろう。

この赤い本だけでも十分にWRAPの魅力を知ることができるが、本当に実践しようと思ったらWRAPのイベントに参加するのがいいかもしれない。私もいずれ参加するつもりだ。

このメソッドが企業活動にどのようなメリットを与えるのか。興味は尽きない。

2010年8月20日金曜日

甘く見ない

障碍のある人たちを対象にITコースを開講している。しかし、「パソコンを教えてやってくれよ」とか「パソコンの先生でしょ?」といわれると心底ガッカリする。そのたびに私は頑なに訂正している。私はパソコンの先生などではない。パソコンの先生は街を探せば掃いて捨てるほどいる。

パソコンは使えて当たり前だ。そして習うものでもない。というよりも「習ってなんとかしよう」なんていうのは間違っていると思う。そう書いてしまうと、また誤解されて不要な溝が深まってしまうので、もうちょっと丁寧に書く。

パソコンというのは「自力でよりよく使いたい」という意欲がなければ使いこなすことなどできない。つまり技術というよりも、それ以上に「パソコンを使いたい」という想いが必要なのだ。だから、「パソコンを教える」のではなく「パソコンを使って広がる可能性を伝える」ということが正しいのだと私は思う。

使いこなす人は「誰かに教えてもらおう」なんて思わない。思ったとしても、その前提として自分でいろいろと情報を集めて、自分なりにバリエーションを増やしていっているはずだ。「先生に教えてもらおう」なんて頼る癖がつけば、先生がいなくなったら成長が止まってしまう可能性は高い。

私もいろいろなエンジニアに出会ってきたが、「技術を教えてもらった」というエンジニアにはお目にかかったことがない。たいていは自分で地道に身につけてきたか、現場で技術習得を余儀なくされて死ぬ気で習得した人がほとんどだ。要するにそれなりのスキルを身につけるためには自分自身の意欲が必要だ。

だから実は「教えてほしい」と思っている時点で負けだ。だから私の即戦力ITコースでは「好奇心」「探求心」「遊び心」を大事にしてきた。残念ながらそれがない人や「やらされ感」がある人にとってはあまり役に立たない。だから私のコースは厳しいことで悪評が立つこともあるし、それなりに嫌われたりもした。

しかし、私がそうするには理由がある。たしかに障碍による体力的・精神的なハードルは認める。しかし、障碍のない人が乗り越えるところはできる限りチャレンジしてほしいし、障碍をいいわけにしないで這い上がってほしいのだ。「障碍」を理由にしてあきらめることは簡単だ。

この境界線はものすごく難しい。「本当に無理」という境界線もあるからだ。だから、私にはその境界線を知るための判断基準がある。それはただひとつ。「楽しそうかどうか」という点。楽しくなさそうなら「楽しさ」を見つけることが何よりも先にすべきことだと思う。楽しくなくて何が身につくというのだろう。

自分ですすんで「新しい何かを調べる」というところまで行かなければ本物にならない。「パソコン教室」だとか「パソコンの先生」は日本中にいる。しかし、そのほとんどは「ここをクリックして、ここをクリックして・・・」という教え方だろう。私はそういうことはしたくない。私が伝えたいのは、「なぜそこをクリックして、どうして次にここをクリックするべきなのか?」という、自分自身で考える力だ。

そういうことをいうと、どこからともなく必ずあがる言葉がある。
「そんなことを言っても相手は障碍者ですよ。レベルとか現実とかそういうのをもっと考えてくださいよ!」と。
・・・フザケンナ!

私はそういう意見から真っ正面から対決したい。実際に投薬によってだいぶ状況がよくなっている人もいる。そういう人も全部ひっくるめて「そうはいっても障碍者だから無理でしょう」と言われてしまうと、心の奥底から怒りがわき上がるのだ。なぜ、未知の世界にチャレンジすることを第三者から「抑制」されなくてはならないのか。

比較的ごく少数ではあるものの、支援者を見ていると当事者のことを「幼稚園児」のように目下扱いしているフシが見え隠れする人もいる。

そもそも「障碍者だから無理でしょう」とは何様のつもりか。障碍者の側に立ったつもりで当事者の将来の選択肢を除去する輩もいる。無難な支援者はどうしても無難な人生にしか導けない。当事者にせよ支援者にせよ、リスクを取ってこそたどり着けるゴールが見えてくるケースもあるのではないか。

たまたま障碍のない人だってそうだ。「無難な人生を過ごしたい」という人もいる。逆に「リスクを取ってでも楽しい人生を過ごしたい」という人もいる。しかし、障碍があるとなると一様に「障碍があるんだから無難な人生を過ごせばいい」という論調になるように思えてならない。でもそれは違うだろう。

彼らの生き方とか望みは最大限活かされるべきだ。私は彼らの「野心」をどうやって現実のものにするのか。そこを考えている。人が生きるということは必死で願いを追いかけ続けることなのだと思う。たまたま障碍をもっただけで、その権利を第三者から剥奪されていいものではない。

私はある程度、「望み」とか「夢」とか「野心」を持った当事者の夢を叶える仕事がしたい。「なんとなく人並みでいいです」とか「仕事ならなんでもいいです。」という人には、受け入れてくれる支援組織がいくらでもある。そうでなく「これがしたい!」という強い願いを持つ当事者の夢を一緒に追いかけたいのだ。私は彼らを甘く見ていない。

そこまで可能性を信じなくて、何ができるというのか。

そんな気持ちを胸に、私はITの「おもしろさ」を伝える講義を続けている。私は「パソコンの先生」ではなく、「好奇心の育て方」を伝えている人間だ。それに「先生」と呼ばれるほど偉くもない。だから何度も書きたい。私のことを「パソコンの先生」だなんて呼ばないでほしい。

2010年8月7日土曜日

いいこいいこ・・・できない

精神の障碍のある人の就職サポートの現場にいるが、その中ではなんともスッキリしないこともある。

精神的に上がり調子にならない人を応援して調子を上げていく。このこと自体は問題はない。ただ、それが行き過ぎた時に、本人の人生がどうなるのだろうかと心配になることがある。

たとえば、履歴書や職歴報告書を全部書いてあげたり、企業とのやりとりをすべて福祉スタッフが本人の肩代わりをすること。これらは就職支援の場では日常茶飯事だ。「いいこいいこ」しながら、なんとかなだめすかして就職させている状況も多く見てきた。

でも、私の気持ちは少し違う。どこまでも「肩代わり」ではなく「支援」であるべきなんじゃないかと思うのだ。過保護な親が大学の卒業式にまでついていく・・・と、そんなイメージが頭をよぎってしまう。

たまに私がIT系の作品作りをサポートすることもあったが、まるで私が就職試験を受けるような気分になったものだ。

そしてそこから葛藤が始まるのだ。「彼が無事に就職できたとして、その後、ちゃんとひとりでやっていけるだろうか?」と。いくらフォローするといっても24時間体制で食いつくわけにはいかない。仮に納期が遅れそうだからといって、私が彼の仕事に張り付くこともできないのだ。

私の「即戦力ITコース」では、比較的厳しい姿勢をとっている。いや、実際のところ、「厳しい姿勢をとろうとしている」が正しいかもしれない。もちろん、病気は病気として認めたい。

しかし、私は「病気」を認めるギリギリ端っこの部分に位置していたいと考えている。「『病気』をいいわけにしない」ギリギリのところで、いろんなことを楽しみながら身につけてほしいのだ。

自分自身についてもそうなのだが、高いモチベーションを維持していくためには、自分でできたことに対して適正な評価をしていく必要がある。

だから、受講生が自力で何かを成し遂げた時には、そのすばらしさを言葉で本人に伝えるようにしている。もちろん私だってうれしいのだから。

しかし、そこからが難しいところだ。

人によってはそのレベルで満足してしまい、先に進もうとしなくなってしまうことがある。もちろん、「昨日の自分にできなかったことができるようになった」ということは、間違いなくすばらしいことだ。

だが、肝心なのは「その先」が必ずあるということだ。挑戦しようとする限り、頂上まで続く道は続いている。それを自覚するだけで姿勢が変わってくると思う。

だから、「いいこいいこ」だけでは、現実的な就職に結びつくところまで行きつくまでに、とても時間がかかってしまう。向かうべき最終的な到達点までの距離を見誤ってしまうからだ。

私が担当しているコースには「甘口」と「辛口」がある。「辛口」は受講生自身の力で這い上がってもらうため、私はそのためのヒントを伝えたり、モチベーションを高くするためのコーチングに専念するゼミ形式だ。

一方、「甘口」は自力で這い上がっていくために必要な練習をする場で、私が全員の前で講義をする形式だ。より自主性が必要とされるのは「辛口」であることは書くまでもない。

しかし、実際には「甘口」の方が受講生から高評価をもらうことが多い。それも、簡単にすればするほど高評価になる傾向がある。正直なところ心中複雑だ。

甘くすれば甘くしただけ、現実的な就職への道が遠のくばかりなのだから。だから「辛口」の受講生にはそれなりのストレスがかかるようにしている。それは「やや高いハードル」だったりもすれば「期待感のプレッシャー」だったりもする。

当たり前のことだが、「お金をもらう」=「プロ」ということだろう。すると「就職してお金をもらう」=「プロになる」ということだ。当然ながらプロにはプロなりの姿勢や考え方が要求される。

たとえば画像修正(レタッチ)であれば、誰が見ても画像修正を施したと分からないレベルにまで仕上げることだ。特に自己満足ではなく客観的に見られるようになることが重要だ。

よく受講生から「これで完璧です」と作品を見せられることがあるが、画像であれば目立つところにノイズがのっていたり、Webページであれば誤字脱字があったりすることがある。このあたりの「詰め」の部分の厳しさを持つことは大事だ。

そういう作品については遠慮なく突き返している。せっかくできるようになってきたのだから、中途半端ではもったいないのだ。できない人には要求しない。できる可能性があるからこそ厳しくする。

よくできたところは最大限に賛辞を送る。しかし、中途半端だと思うところについては遠慮なく辛口コメントを飛ばしている。なぜなら、いずれ「ひとりだち」をしなくてはならないからだ。

自分の人生には自分自身で責任を持つ必要がある。だから、私は本人のためにならないと判断したときは絶対に「いいこいいこ」なんてしない。

2010年7月17日土曜日

精神疾患就労をめぐる温度差

精神疾患を巡る職場環境のあり方については、人によってさまざまな見解がある。

(1) 「非当事者」と肩を並べて「仕事」ができるようにしていく。
(2) 精神的に無菌状態の作業所で、できる「作業」をずっとしてもらう。
(3) そもそも無理をしてまで社会参画なんてさせても意味がない。

実は私がよく聞く意見は、
 (3) そもそも無理をしてまで社会参画なんてさせても意味がない。
だ。

要するに「200%で働く人の足を引っ張るから、できれば一緒に仕事をしたくない。」という意見だ。私は(無自覚ではあるものの)第三者的に見れば「福祉」の側の人間なのかもしれない。だからこそ、あえて私はそこで声高に反論しない。否定したい人の前で反論すれば火に油を注ぐだけだから。くやしいけれど他に説明するいい方法がきっとある。

ところで、(3)を主張する人に多いのが、「僕は絶対に精神疾患にかからない自信がある。」と断言する人。そして、その次の言葉には、「日本には徹夜してがんばれる人が必要なのだ。」という主張がやってくる。

調子よくがんばっていた人が、突然、精神疾患でダウンしてしまう。精神的に追い詰められて自殺を選んでしまう。そんなことは当たり前に起きている。だから、「僕は絶対に精神疾患にかからない自信がある。」という言葉ほどアテにならないものはないと思っている。その言葉は精神論的なもので、未来を保証するモノでもなんでもない。

個人的に、「気合いで徹夜すれば世の中はもっとよくなる!」と信じている人は、やはりどこか時代遅れなのではないかと私は考えている。疲労を抱えて仕事をすることは明らかにポテンシャル低下を招く。逆に徹夜をしなければならないのは「効率の悪い仕事をしている」可能性もあるかもしれない。

もちろん時としてそうなるし、私も経験したことがある。そこには知識や経験が足りないゆえの「非効率」も存在するし、単に人員が少ないところを「気合い」で補っているケースもある。これらの要因は完全に排除することはできないだろう。しかし、問題要因を減らそうとする努力は必要なのではないか。気合いは無限ではない。それを忘れたときに人間は再起が困難なレベルまで消耗する。

高度急成長を過ぎて、バブルを迎え、それがはじけた後の世界に、今、生きている。いつまでも高度急成長のような「モーレツ社員」だけで世の中は持続できない。ましてや、少子高齢化の状況下で、精神疾患や自殺などで社会資源としての人材が消失していくことは大きな社会的損失だ。だからこそ、できるだけリソースを消耗させず、最大限に活用する戦い方が必要だ。

そういう観点から、精神疾患の当事者も積極的に社会に参画することが望ましいと私は思う。逆に彼らが活躍できる場が増えることは、社会にとっても大きな価値をもたらすと考えている。もちろん不自然でない形での社会参画だ。

そして、基本的には、
 (1) 「非当事者」と肩を並べて「仕事」ができるようにしていく。
というのがフェアな考え方だ。

しかしながら、環境が苛烈であればすぐに精神的に消耗してしまうだろう。それは精神疾患の当事者の側だけが課題を抱えているわけではない。「キツイ」ことをそのまま放置している職場環境にも課題がある。もちろん、どんな職場ににも「キツイ局面」というのは存在するし、それを100%排除することは不可能だ。

しかし、気合いを必要とする局面はすでに負けている状態なのだろうと思う。だからこそ、本来は気合いを必要としない戦い方をプランニングする必要がある。そういう意味では、精神疾患の当事者を受け入れられる職場を構築することは、非常に大きな意義を持つと考えている。そろそろ「メンタル・スロープ」を取り入れてみてはどうだろうか。

階段の脇によく設けられている「スロープ」。身体障碍者にとって有効な設備だが、足を怪我してしまったとき、重い荷物を持っているとき、疲れているときに使うとありがたさが分かる。障碍者に優しい設備は障碍を持っていない人にとっても便利なものだ。(もちろん長距離を歩かずに、短距離で上れる階段もそれはそれで便利だが。)

それになぞらえて、私は「メンタル・スロープ」のある職場環境を構築したいと考えている。障碍者だけではない。たとえば高齢者でもあってもいいし、時間的制約の厳しい主婦の方でもいい。誰にとっても無駄なストレスがかからない職場環境を構築したい。精神疾患の方だけを対象にした精神的なスロープのある職場環境だ。

ただし、それは、
 (2) 精神的に無菌状態の作業所で、できる「作業」をずっとしてもらう。
を意味しているワケではない。

精神的に「無菌状態」というのは不自然な状態だと思うからだ。たとえば、無菌状態で育った生物は、ちょっとした菌に対しても抵抗力を持てなくなってしまう。ほどほどの菌に触れてこそ健全に生きていける。ストレスも同じことだと考えている。適切なストレスが人間を成長させてくれる。

しかし、明らかに不要なストレスはあるはずだ。たとえば、私が体験した職場では、月曜日の朝イチに会議を行う会社があった。先週のミスを徹底的に掘り出して、誰に問題があったのかを割り出すための会議だ。あたかも「東京裁判」のようだった。その結果、月曜日に休暇を取る人が増えてしまった。

週の初め、もっともモチベーションを高めたい時に、無駄なストレスをためてモチベーションを乱降下させる会議の意味が、私にはついに最後まで理解できなかった。このようなものはやらない方がよっぽどいい。沈黙だけが続いて先に進まない、ただ眠気をかみ殺すだけの会議。こういうものもやる価値は低いと思う。こういう無駄なストレスを削ることは大事な課題だと思う。

おそらく、精神疾患の当事者が楽しく働ける環境は、誰にとっても楽しく働ける環境なのではないか。その基本環境をベースにして、さらにがんばりたい人は、組織全体でバックアップできる環境。「馬鹿だね、そんなのはただの『理想』だよ」と笑われるかもしれないが、私はそういう職場環境を構築したいと考えている。

馬鹿で結構。馬鹿にしかできない社会参画もあるはずだ。理解してくれる人は少ないかもしれないが、あえて愚鈍に理想を追いかけてみたいと思う。

※2010/07/15現在、「google」を検索する限りでは「メンタル・スロープ」または「メンタルスロープ」という言葉は1件もヒットしない。しかし、いつの日か「メンタル・スロープ」という言葉が使われるようになるといいなと思う。

2010年7月15日木曜日

人生の残り時間

私は精神疾患の当事者対象にITコースの講師をしている。それは、IT業界の経験者が少ない福祉業界にあって、IT関連への職業選択の可能性を広げたいからだ。そして私はITエンジニアになりたい当事者に「知識」ではなく「経験」を提供している。自分自身で解決したという「経験」ほど強いものはない。

このコースを始める前にはいろいろと検討要素もあったが、実際にやってみると、それなりに効果が上がっているような実感がある。それはひとえに受講してくださっている方の気持ちに支えられている部分が強いと感じている。

それでも、考えさせられることも多々ある。たとえば「就職支援」の前段階である「生活支援」が必要な人が、「講義に出席すること自体に意味がある」と考えたり、周囲に教えられたりしている場合だ。まったくモチベーションがないのに、とりあえず机に座っているケースがある。もっと正確に書いてしまうと机に突っ伏してしまう方もいる。

「休憩なら隣のお部屋でどうぞ。」

このあたりのさじ加減が難しいところなのだが、私はそういう方にはやんわりと退室をお願いしている。本当に難しい。本来であれば、モチベーションを高めることが私が行うべきミッションだ。自分の中では「職務放棄ではないか」と重く受け止めている面もある。しかし、実際問題としては退室をお願いしなければならない境界線がある。

私は「前に進みたいと願っている人」を絶対に応援したい。理解に時間がかかる人もいるし、実際のところ私もどちらかというと理解に時間のかかるタイプの人間だ。気合いと結果というものは、しばしば理想と乖離することがある。だからそこを責めても仕方がない。どれだけ時間がかかってもモチベーションさえあれば、なんとかなる。

しかし、最初からモチベーションがマイナスを向いている方は難しい。おそらく参加しても何もする意欲がないのだから眠いだけだろう。眠いことを我慢するということは、現実的に大切な場面も存在するが、それでも基本的に無駄な苦痛だと思う。貴重な人生の時間を無駄な苦痛に割くくらいなら退室いただいた方がいいだろうと思う。

福祉的な観点から、「座っているだけでいいから参加させてあげてほしい。そこから何かに気づくかもしれない。」と注意なり勧告されることも少なくない。私もそういうご意見については理解している。しかし、私はあえて厳しく対応したいと考えている。なぜなら「前に進みたい」と考えて参加してくださっている他の受講生の方に失礼にあたるからだ。

ただ、「腐ったみかん」と考えているのかというと、それも違う。そうではない。そういう場に入るタイミングがまだきていないだけなのだと思う。そしてそういう場に入る前の姿勢作りはとても大事だ。だから、そのうち個別でモチベーションの発掘をしたいと考えている。それが終わってから講義に参加していただければよいのだろう。

ITコースを受講してくださっている方に力がついてきていることを最近特に感じる。「何もできなかった」と語っている方が、今では動きのあるWebページを作れるようになってきている。そして自分たちで新しいことを始めようとしている。私はそういう流れに希望の光を見ている。モチベーションこそが自分の人生を自走するためのエネルギーだ。

今はモチベーションのエネルギーが不足している人もいる。しかし、いつかは自分が持つエネルギーに気づける日が来るといいと願う。人生の時間には必ず限りがある。だからすこしでもエネルギーを燃やして有意義な時間を送ってほしいと思うのだ。ブルーな日々よりもハッピーな日々を送った方がいいように思う。

2010年6月17日木曜日

難しいってホント?

難しそうな肩書きの方に会うことがあるが、そこで今やろうとしていることを話すと、やたらと難しそうな話が戻ってくることがある。「○○と連携しないと難しそうだ。」だとか「実際に運用してみると難しいでしょうね。」だとか。

難しいかと言われれば、そりゃ難しいと思う。今までの決まりきった日常生活どおり過ごすことに比べれば。変化を起こすってことは少なからず新しい局面に出会うことになるし、新しいことであれば新しい対処方法を考える必要がある。

先に戦略を立てて走っていくことの正しさも理解できる。前もってリスク要因を把握して対策を立てることも大事だ。そこは十分に分かっているし、そういう考え方を否定するつもりは全くない。しかし、やはり私個人としては、気持ちが先立つことがいちばん大事なんじゃないかと思う。

新しいことを始めるのには必ずリスクが伴う。もう少し正確に書くと、毎日生きているだけで何らかのリスクが伴うものだ。外に一歩出れば何らかの事故に巻き込まれる可能性がある。だからといって外出しないのか?・・・と問われれば、多くの人はNoと言うだろう。

私がハケンを辞めて講師になろうと思ったときも、多くのご心配をいただいたし、自分自身、多くのリスクを自覚した。講師として生活できるかどうかも分からないし、私を講師として必要とする人が必ずいるとも保証の限りではなかった。すべてやってみないと分からないという状態だ。

結果として、無謀にも私はハケンをすっぱりと辞め、精神の当事者向けの「即戦力ITコース」の講師の道を選んだ。以前に比べると収入は低下したものの、とりあえず生活はできている。そして私の講義を楽しみにしてくれる受講生の方々もいる。

受講生の方々のリアクションやクレームなど、さまざまな課題を乗り越えて、手前味噌ながら、今ではかなり身のある講義ができるようになってきたと確信している。これらはすべて「実際にやってみてわかったこと」だ。最初から予想できていたとしたら苦労はない。

と書いたものの、実際のところ苦労はあまりしていなかったりもするのだが。なぜなら目の前の課題を自然体で楽しめたからだ。むしろ、実際に現場に飛び込まずに「事前にリスクを予測してくれ」と言われたとしたら、おそらくそちらの方が苦労するだろうし、そんな無駄なことに時間を使いたくない。

なにしろ人間相手のことだ。どれだけ芸術的なカリキュラムを組もうが、受講生のハートに届かない内容なら無駄になる。ついでにいえばどんな人が受講生になるかどうかなんて、実際に始めてみないと誰にも分からない。

「まずは初めてみる」以上に強いものはないような気がする。だから構想の時点で「難しいですよね。」といわれると、ちょっと萎えてしまう。基本的にリスクは大前提だ。というよりも、何か新しいことを始める際のリスクというのは、リスクを恐れること自体ではないだろうか。

起きてもいない未来についてご託を並べるくらいなら、いっそ始めてしまった方がいいんじゃないかと思う。リスクを想定するよりもずっと現実的な答えが自動的にやってくる。その現実に対して精一杯の対応を重ねていけばいい。

私は過去、「頭で考えて実行になかなか移せない」タイプの人間だった。今でもそういう要素は少なからずある。だが、やはりリスクを自覚しても「飛び込んだ先に道が開けていた」という経験は得がたいものだ。私の行動様式はそこを境に変わったような気がする。

もしも心が本当にやりたいことだったら、考え込む前に行動を起こすことだ。それしかないと思う。心が硬直して動けなくなる前に行動することだと思う。

2010年6月11日金曜日

先輩風と同族嫌悪

私はいわゆる「先輩風」というのが苦手だ。いつから苦手になったのか分からないが、とにかく現在のところすっかり苦手になっている。障碍者の就労支援などの飲み会に行ったりしても、たまにそういうタイプの方をお見受けする。

「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」「要するに今のオマエに足りないのは・・・」「今度オレが見本を見せてやるから、そこから何かを学べよ」・・・そんな説教を耳にしてしまうと、どうにも居心地が悪くなって逃げ出したくなるのだ。

できれば飲み会では説教を聞きたくないモノだ。面倒見がいいタイプと言えば、おそらく面倒見がいいタイプなんだろうと思う。だから適材適所というやつで、きっとそういう人が役に立つ領域はあるに違いないし、きっと感謝している人もいるんだろうと思う。

それなのになぜ、私は先輩風で説教をする人が苦手なのか。それはたぶん、私もそういうことが本質的に好きだからなんだろうと思う。自分の中で理性がなくなったら、いろんな人に説教して回るような気がする。いくらかしているかもしれないが、できればしたくない。

経験のある人の言葉は貴重だ。そして自分が体験したことを、未体験の人に伝えることもとても大事だ。しかし、無意識にとはいえ「上下関係」ができてしまうと、自分の判断を相手に押しつけてしまうことがあるのではないかと思う。

たとえば「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」という言葉には、「自分のやり方=正しい」ゆえに「自分のやり方以外=ダメ」という価値観の押しつけが含まれている。そして基本的に「上から目線」というのは本人にとって気持ちのいいものだ。実にイヤらしい話だが。

人はそれぞれ得意なことが違う。好きなことも違う。考え方も違う。しかし、そういう基本的かつ簡単なことをいとも簡単に忘れてしまいがちだ。私はその昔、自分の価値観を押しつけてしまった結果、有能な部下を失ってしまったことがある。その時の教訓は今も心にしみついている。

心地よい「上から目線」に慣れすぎてしまうと、それで誰かを縛り付けてしまっていることに気づかなくなってしまう。先輩として親切な気持ちから生まれた言動であっても、相手にとっては迷惑きわまりない圧力となっているかもしれない。

得意げに先輩風を吹かして説教をしている人を見ると、まるで過去の私をみているような気がしてしまう。なんともいえない気恥ずかしさで逃げ出したくなる。今さらガキ大将でもあるまいしと。そういう意味では同族嫌悪なのだ。

世の中はうまくできているような気がする。イヤなシーンに出会うからこそ思い出せることもある。きっと「人の振り見て我が振り直せ」ということなのだろう。そういう意味では私の役に立って頂いているわけだ。やはり感謝しなくてはいけない。