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2011年1月4日火曜日

2011年、無理を砕く!

私が考えている「障碍を持つITスキルなき層」に「ITスキルを実装する」という夢は「時間がかかるし無理だろう」と言われたことだ。無理だ無理だと言われるほど私は燃える。誰もが無理だと思うことは、誰もができると思えることよりも価値がある。誰もができるのなら上手にできる誰かがやればいいのだから。そういう仕事ができるようになった去年は充実した年だった。

私は今、代々木のジョイコンサルティング株式会社において、障碍者の就労移行支援センター「ジョイワークセンター」の運営に携わっている。私も含んだ多くの夢の結晶として去年の10月から稼働しているセンターで、日に日に利用希望者が増えている。私はこのセンターを通して「夢を持った働き方」を経験して欲しいし、そこから巣立つ人材には社会の夢を作ってもらいたい。

「そんなこと無理だ、障碍のない人でも難しいのにデタラメもほどほどにしろ!」とお叱りを受けそうだが、この点において私はド真剣だ。「障碍者なんだから就職できるだけでもラッキーだと思わないと」などと妥協したくない。夢を持って仕事をする権利は誰にだってある。障碍を持っていたら夢を持って働いてはいけないとは誰が決めたのか?

これは私の個人的な思い入れだが、「ジョイワークセンター」という名称は、単に「ジョイコンサルティング株式会社」から「ジョイ」の文字をもらっただけではない。「Joy=喜び」「Work=働く」「Center=中心」。まさに「喜びを働きの中心に」という願いがこもっている。決してワーカホリックを推奨するわけではないが、やはり仕事は楽しい方がいい。

就労移行支援というのは表面的には「就職がゴール地点」だ。しかし、所詮は「表面的なゴール」に過ぎない。実際のところ「就職はスタート地点」にすぎないし、さらに言えば「人生の経過点」にしか過ぎない。地点の位置はともかくとして、長く働いていくためには「楽しい」または「心地よい」と思えることが非常に重要だと思う。

私は「仕事を趣味にするくらい」に仕事を好きになれるという体験をしてほしいと思っている。もちろん強制ではない。しかし、それくらいに仕事が面白くなったら「サザエさん症候群」なんてものは世の中から消える。土日を過ごしていると平日が待ち遠しくなる。そんな人生の一時期があってもいいんじゃないだろうか。

仕事が好きになるというのは、ある意味で才能だ。どんな仕事についてもやはり「イヤなこと」もあったりする。しかしそれを上回る「喜び」を感じることができるのなら、その仕事は続けていける。そういうマインドで仕事ができるのならば、もはや就労を継続させるための支援に頼らなくてもよくなる。私はそういうマインドをこそ獲得して欲しいと思う。

もちろん仕事だから厳しい状況もストレスも体験するはずだ。なぜなら当然ながら納期もあるし、品質によってはイヤになるほどのやり直しもある。それでも好きな仕事というのが天職なんだと思う。そしてその天職を見つけたり、逆に天職を自ら作り出すのもひとつの才能と言ってもいい。

これからジョイワークセンターを巣立とうとしている方々が、最終的にどのような道を選ぶかは分からない。しかし、人生の中で「きつかったけど、楽しいと思える仕事を体験した」と思えること自体が大きな財産だと思う。本気で自分で考えて、本気で仕事を楽しんだという「自信」や「実績」はウソをつかない。場所は違えども「仕事を楽しむスキル」は活きると信じている。

ちなみに、ジョイワークセンターはいろんな連携を積極的にしていく。一般企業とも、福祉施設とも、そして同業者とも。私はジョイワークセンターの可能性に自信を持っている。と、同時に、ジョイワークセンターだけではすべてのパーソナリティにご満足いただけないという自覚もあるからだ。

ジョイワークセンターでは、個人個人がなるべくマニュアルに依存しない方向性を推し進めている。むしろマニュアルの本質を掴んだ上で、マニュアルの改善ができる方向性を指向している。これはものすごく忍耐力がいるし時間もかかる。しかし、個人個人の発想を社会に活かすための創造性と自己解決力を最大の柱にしている。

一方、マニュアル通りの作業を厳しくたたき込んで、立派な社会人を形成する方法論もある。個人的には、これはこれで大きな価値があると思っている。いわゆる昔の「戸塚ヨットスクール」方式だ。おそらくこの方式でなければうまくいかない人もたくさんいるだろうと思う。だからその価値を最大限に認めた上で、ジョイワークセンターとしては別の路線を歩みたいと思っている。

個人個人の個性が違うことを認めるのと同じレベルで、支援するさまざまな団体のポリシーの違いも認めて讃え合える関係がいいと思っている。ジョイワークセンターはジョイワークセンターの色でやっていく。しかし、横の連携を密にすることでお互いの特色を補完しあう関係になれる。つまり障碍を持つ人が就職を考えたときに、広い選択肢を持つことができるようになるのだ。

ジョイワークセンターは今年もガンガン飛ばしていくつもりだ。そして、あえて誤解を恐れずに書きたい。「障碍者マーケット」自体の発展の一部となることを。もはやタブーではなく「受験生マーケット」や「育児マーケット」と同列に普通に語られるようになることを。そして、次のフェーズでは「障碍者」という区分で語られなくなる日を目指したい。

今は、障碍を持っている人のスペックを社会にアピールするフェーズだと思っている。これが浸透しないと、人材の本質的価値が社会に伝わらない。しかし、そのフェーズが十分な形で社会に広まったら、すでに「障碍」区分は関係なくなる。どんな人でも本質的な能力によって適正な社会貢献ができるようになるだろう。

これからそんな世の中を作るつもりだ。どうぞご期待いただきたい!

参考:ジョイワークセンター

2010年12月5日日曜日

障碍者とスタートレック

SF好きな人なら知っている作品かもしれないが、私は「スタートレック」というSFドラマが好きだ。緻密に練り上げられた世界観も魅力的なのだが、「SF」という舞台を使ってタブーになりそうな社会風刺もきっちり押さえているところが特に好きだ。

聞くところによると「架空の惑星の話だから」という建前で、アメリカ国内に存在する深刻な問題もさらっと描写できているのだとか。そういえば「裁判前に死刑が確定している惑星」なんていうのもあったが、実際に地球上に存在する某国を彷彿とさせる。

私にとって「スタートレック」は人間関係の教科書のようでもある。

時に理論を飛び抜けて感情を優先してしまう地球人と、感情を持たずにどんな時でも理論を優先させようとする異星人が、同じ宇宙船に乗って長い時間を過ごす。他にも、戦闘が最優先の異星人もいるし、商売が最優先で男尊女卑を文化として持つ異星人もいたりする。

当然、いろんな対立が起こる。たとえば「感情vs理論」という構図。仮にここでは「理論星人」と呼ぶ。この「理論星人」はとにかく空気を読まない。ただ、その時に正しいと感じたことをそのまま口にする。クルーの仲間が死んでも埋葬よりも現実的な対応を優先する。

当然、感情的になった地球人クルーは彼のことを、「君の『理論』は聞き飽きた!」と責め立てる。しかし落ち着いてストーリーを見ていれば、実は「理論星人」の方が正しかったりする。「感情を持つことが恥とされている文化」を持つだけに、感情を持つ地球人の間では浮いてしまうことも多い。

しかし、感情に流されない彼の存在によって地球人クルー達も何度か命拾いをする。だから、感情的なものがあまり通じないとはいえ、理論を優先する彼の居場所はちゃんと確保されている。他の異星人についても、最初は衝突が強調され、そこから融和し、存在価値に気づいていく過程がストーリーに描かれている。

スタートレックを見ていて不意にいつもの仕事と脳内で結びついた。「理論星人」というのは、ある種の発達障碍の人たちを描いているんじゃないかと。たまに感情を害することを言うかもしれないが、それは事実から目をそらすことを防止してくれる。感情に流されずに現実的な方向性を示唆してくれる。

スタートレックの面白いところは、既存の常識の外側にいるからといって、多くの場合、すぐにその存在性を排斥しないことだ。もちろん決定的な文化の違いにイライラしたりもする。そのあたり、たっぷりと異星人とのストレスを描写している。しかし長い時間をかけて融和していく。そしてお互いの長所を認め合っていく。

「たかがSF」といえば「たかがSF」なのだが、スタートレックを見ているとユニバーサルな気分になってくる。誰にも存在意義があるんだよなあと。私が生きている時代に宇宙旅行は無理かもしれないが、それでも人生の宇宙船ではたくさんのクルーと出会うだろう。できるだけ多くのクルーと人生を豊かに旅行したいと思う。

2010年10月6日水曜日

不完全を楽しむ

世の中にはいろんな偶然があって、いろんな人生を辿る人がいる。生まれつきの顔や体の違いももちろんのこと、走る速さや持久力などの身体能力。記憶力や頭の回転の早さなど、さまざまな違いがある。その違いの中には、視力の悪さや記憶力の悪さなども含まれている。

正直なところ、私自身も記憶力のよい部類ではない。人の名前はよくど忘れしてしまうし、わりとうっかりをやらかしてしまいやすい。

会ってから日の浅い人を誰かに紹介しようとして、名字をど忘れしてしまうと、とんでもなく気まずい。というか最近ではさっさと謝ってしまう。それから初めて会った人の顔を忘れてしまって、名前と顔が一致しないこともままある。

最近では顔を忘れてしまわないように、先方のお許しを得て顔写真を撮らせていただくこともある。顔写真にお名前を添えて、たまの休日に出会った方々の顔写真と名前を眺める。これでだいたいの場合は解決する。いつも会っているような気になってくるからだ。

こんなことも障碍といえば障碍なのかもしれない。が、実際には自らのアイデアによるアシストで致命的に破綻をきたすことはない。私にとって自分の足りないところをアイデアによって補うことは、視力の悪い人が眼鏡やコンタクトレンズを使うのと同じ感覚だ。

私は連続する単調作業が大の苦手だが、これについてもIT関連の手段を活用することによって、作業の遅さや正確性を補うためのシステムを開発して解決することが多い。

私はあらゆる意味において完璧ではない。ただ、その不完全さをアイデアで補うことを楽しんでいるフシがある。たとえばスケジュール管理が苦手であれば、それを補完するためのツールやシステムによって解決しようとする。

異論を唱える人もいるかもしれないが、記憶力などの基礎能力を鍛えようとする前にアイデアに走る。なぜなら苦手なことを一生懸命に克服しようとする時間などないからだ。ものすごい訓練をして能力的な不完全を克服したとしても、いずれにせよそれはマイナスからの出発だ。

もちろん訓練によって不完全を克服することを否定しているわけではない。苦手なことを克服しようとすることには大きな意義があるし、努力するということ自体すばらしいことだ。

ただ、私の場合はそれを「楽しく」「違う方向から」解決したいという欲求があるだけだ。私が「不完全」にぶつかった時は常にこう考える。「もしも、この不完全が一生どうにもならないと仮定したら、どのような方法で状況を改善することができるのだろうか?」と。

アイデアを考えるためにいろんな不完全パターンを検証しているうちに、幸いにもそれがトレーニングになってしまい不完全が緩和されてしまうこともある。しかし、世の中には「障碍」という名の物理的な要因で状況が改善できないケースもある。

そう考えると、やはり私はアイデアによる解決がしたくなる。自分の不完全をシステムによって改善することができるのだとしたら、私と同じ状態で悩む人にとっても面白いことができるからだ。

おそらく私が記憶力と頭の回転力に困っていなければ、おそらくさまざまなアイデアを考える必要もなかっただろう。しかし、実際には私自身にはさまざまな不完全がある。さらに拡張して考えてみれば、社会全体が抱える不完全というものもある。

そういうものを知ると私はどうにもウズウズしてしまう。どうやったらその状況をラクにできるのだろうか。私はラクをするためにどんな苦労もいとわない。もちろんそこには労力コストと効果を天秤にかけることを忘れない。苦労しまくって効果が薄ければ全体として失敗だから。

いろんな不完全がいろんな人にある。身体的なものであったり人格的なものであったりさまざまだ。「当事者の気持ちになってみろ!」と怒りたくなる種類の不完全を抱えている人もいるだろう。

それでも私はその環境を改善するための「楽しみ」を見いだせたら幸せだと主張したい。それは「あきらめないこと」だから。あきらめない限り必ず心の中の炎は燃え続けるのだから。心の中の炎が燃えているということは、それだけで幸せなんだと思う。

人間である限り、健康だろうが、病気だろうが、なんだろうが、いずれは人生に終わりがくる。「未来に夢を持て」なんていわれても、遠すぎる未来を見つめたら「死」が待っているだけだ。

人間、せいぜい、明日、明後日、一週間後、一ヶ月後、半年後、一年後・・・程度の未来を見つめながら、今を全速力で燃えながら生きていくのがいいような気がしている。過去にこだわることも、未来にこだわることも意味がない。今、生きているのだから、とにかく燃えて生きる幸せを感じた方がいい。

そんなことを思いつつ、私は、今を燃えながら生きている。
もちろん、ほどほどに手を抜きながら。
ラクができない人は、人をラクにすることもできないだろうから。

私はいろんな人をラクにしたい。
すこしずつでいいから。

2010年9月29日水曜日

忘れたくない初心

私がこの業界に属するようになってから、今も忘れたくない初心がある。

それは「弱者を守る」という意識を持ちたないこと。「弱者を守る」なんて意識そのものが傲慢な気がする。しまいには「わざわざ○○に○○をしてやってるんだ!」なんて勘違いをしそうだ。

弱者は弱者として認識するからこそ「弱者」。弱者を助けるという発想には「上下関係」がある。弱者だと思われている人の中に眠る「強さ」を掘り起こすことが重要ではないか。そうでなくては「弱者」はいつまでたっても弱者のままだから。

たまに障碍者に対して「あの人は○○ができないから、○○の業種はあきらめてもらいましょう」とか「まだ高望みしているから就職は無理だ。もう少し希望を下げてもらわないと困る」なんて会話を聞くとさびしい気分になる。

夢を持つことやチャレンジする気持ちは何よりも大事だと思う。でも、障碍を持っているというだけで「夢を見るなんてとんでもない」という空気感があるような気がする。そして「掃除・軽作業・事務」のトライアングルをオススメされる。

それ以外の分野に進もうとすると、医者に止められたり、福祉関係の職員に止められたりもする。夢を完全に失っていたり、自分に自信がなかったり、そして素直だったりすると、いとも簡単に自分の夢を捨ててしまうことになる。

「○○の仕事だったら、あなたにもできると思いますよ。」という「上から目線」のアドバイスには問題があると思う。「『この人よりも上』の自分のアドバイスはすべて正しいはずだ。」という思いが見え隠れしてしまう。

人、それぞれ違う。障碍を持っていようがいまいが同じことだ。誰だって初めてのことに挑戦するにはリスクがあるし、その道で成功するという根拠も保証もない。障碍者で難しいのは周囲の影響力が大きいことだ。

周囲にいる影響力のある人の価値観の上限でしか生きられない人生は息苦しい。今、私は障碍を持っている人の人生に伴走する立場だ。もしかすると彼らの生き方に対して一定の影響力を持っている可能性が高いと思う。

だからこそ自分の価値観を押しつけることにならないように注意していたい。えげつない書き方になってしまうが、『自分よりも弱い立場』の人間を自分の周りに集めると、相対的にいとも簡単に『権力のある王様』になれる。

それじゃいけない。

もちろん障碍の程度というのはあるが、基本的には挑戦する気持ちを捨ててはいけないし捨てさせてはいけない。挑戦する前にあきらめさせてもいけないとも思う。もちろん壁にぶつかればショックを受けるだろう。

ショックを受けたら二度と立ち上がれない・・・と考えてしまうかもしれない。精神の障碍を持つ人に精神的なショックを与えてはいけない。たしかにそういう一面もあるかもしれない。ただ一方で人生から完全にショックを取り除くことはできない。

ショックとなる要因を社会から軽減させることも重要だが、ショックに対する耐性を養っていくことも一方で重要だ。「配慮」と「過保護」は本質的に異なる。人生に必要なショックというのは確実に存在する。ショックを受けながら人は成長していくのだから。

多くのショックを乗り越えて「弱者」は弱者でなくなっていくと思うのだ。だから、私は弱者を守らない。弱者とならないように「心の芯」を見守りながら育てていく立場でありたいと思っている。

考えてみれば誰にだって「弱さ」があるではないか。だからこそ、自分の中の「強さ」に気づくことだってある。「弱いところだけ」をクローズアップするから「弱者」という言葉が生まれる。たぶん弱い分だけ強さがあるんだと思う。

2010年8月24日火曜日

WRAPでストレスフリーな就労環境

WRAPというメソッドがある。アメリカで精神障碍の現場で編み出されたもので、「元気回復行動プラン」とも呼ばれている。ITエンジニア的な視点で表現すると「高度に洗練された自己回復のための危機管理技法」といえそうだ。

端的に表現してしまうと語弊があるかもしれないが、「自分自身の攻略本」を自分で作るスキルという感じだ。誰でも持っている「ダークな自分」をどうやってやっつけるか・・・ということを「あらかじめ考えておく」ということが大きなポイントだ。

私自身を例にとって考えてみる。スペースと時間の制約上、それぞれの例を2点に絞って紹介したい。

(1)良い状態の時の自分【自分にとっての標準状態を知る】
 →すべてのことが「うまくいく」ような気分になる。
 →関わるすべての人に感謝できるようになっている。

(2)毎日するといいこと【いい状態になれる行動を知る】
 →少なくとも5時間以上は睡眠を取ること。
 →ポジティブな話題で明るく誰かと盛り上がる。

(3)気分が悪くなる引き金【状態が悪くなるきっかけを知る】
 →「常識」を旗印にして頭ごなしに否定されること。
 →選択の自由がなく強要されていると感じたとき。

(4)引き金による注意サイン【危機発生の兆しを知る】
 →注意が特定のことに偏ってしまい視野が狭くなる。
 →脳内の血流が高まり「めまい」に近い感覚がある。

(5)調子が悪くなっているサイン【危機発生後の状況検知】
 →引き金となったシーンを何度も思い出してしまう。
 →他の人たちも自分から離れていくような被害妄想を抱く。

(6)第三者に「普段の自分」を伝える【通常ステータスの通知】
 →あまり感情的にならないか、ポジティブな感情を示す。
 →できうる限りすべてのことをポジティブにとらえようとする。

(6)第三者に「異変後の自分」を伝える【異常ステータスの通知】
 →会話中は声のトーンが大きく高くなり表情が引きつってくる
 →会話しない時は表情が無表情に近くなり極端に無口になる

(7)第三者に「してほしいこと」を伝える【異常対処方法の通知】
 →「ちょっと休憩にしませんか?」とインターバルをいれてもらう。
 →「意見を強要しているわけでない」という意図を伝えてもらう。

(8)必要な投薬や主治医に関する情報【危機管理情報の通知】
 ★私は投薬も通院もしていないので例示できない
 望む処置方法や病院などを通知可能。
 逆に望まない処置方法や病院なども通知可能。

WRAPについてはまだまだ研究中のため、解釈が正しくない可能性もある。それでも「第三者を意識した危機管理マニュアル」になっている点は非常に興味深い。特に自分が制御不能になった時のシミュレーションは有効だろう。

今のところ、一般的な職場でWRAPを取り入れている例をあまり知らないが、障碍の有無に関わらず積極的に就労環境に取り入れていけば、何かしらの変化が見られるようになると考えている。

なお、今回のエントリーを書くにあたっては、千葉「らっぴん」で入手させていただいた、「元気回復行動プラン WRAP」(道具箱・刊)という赤い本を参考にした。

※一般書店で販売されていないので、ここから注文するとよいだろう。

この赤い本だけでも十分にWRAPの魅力を知ることができるが、本当に実践しようと思ったらWRAPのイベントに参加するのがいいかもしれない。私もいずれ参加するつもりだ。

このメソッドが企業活動にどのようなメリットを与えるのか。興味は尽きない。

2010年8月20日金曜日

甘く見ない

障碍のある人たちを対象にITコースを開講している。しかし、「パソコンを教えてやってくれよ」とか「パソコンの先生でしょ?」といわれると心底ガッカリする。そのたびに私は頑なに訂正している。私はパソコンの先生などではない。パソコンの先生は街を探せば掃いて捨てるほどいる。

パソコンは使えて当たり前だ。そして習うものでもない。というよりも「習ってなんとかしよう」なんていうのは間違っていると思う。そう書いてしまうと、また誤解されて不要な溝が深まってしまうので、もうちょっと丁寧に書く。

パソコンというのは「自力でよりよく使いたい」という意欲がなければ使いこなすことなどできない。つまり技術というよりも、それ以上に「パソコンを使いたい」という想いが必要なのだ。だから、「パソコンを教える」のではなく「パソコンを使って広がる可能性を伝える」ということが正しいのだと私は思う。

使いこなす人は「誰かに教えてもらおう」なんて思わない。思ったとしても、その前提として自分でいろいろと情報を集めて、自分なりにバリエーションを増やしていっているはずだ。「先生に教えてもらおう」なんて頼る癖がつけば、先生がいなくなったら成長が止まってしまう可能性は高い。

私もいろいろなエンジニアに出会ってきたが、「技術を教えてもらった」というエンジニアにはお目にかかったことがない。たいていは自分で地道に身につけてきたか、現場で技術習得を余儀なくされて死ぬ気で習得した人がほとんどだ。要するにそれなりのスキルを身につけるためには自分自身の意欲が必要だ。

だから実は「教えてほしい」と思っている時点で負けだ。だから私の即戦力ITコースでは「好奇心」「探求心」「遊び心」を大事にしてきた。残念ながらそれがない人や「やらされ感」がある人にとってはあまり役に立たない。だから私のコースは厳しいことで悪評が立つこともあるし、それなりに嫌われたりもした。

しかし、私がそうするには理由がある。たしかに障碍による体力的・精神的なハードルは認める。しかし、障碍のない人が乗り越えるところはできる限りチャレンジしてほしいし、障碍をいいわけにしないで這い上がってほしいのだ。「障碍」を理由にしてあきらめることは簡単だ。

この境界線はものすごく難しい。「本当に無理」という境界線もあるからだ。だから、私にはその境界線を知るための判断基準がある。それはただひとつ。「楽しそうかどうか」という点。楽しくなさそうなら「楽しさ」を見つけることが何よりも先にすべきことだと思う。楽しくなくて何が身につくというのだろう。

自分ですすんで「新しい何かを調べる」というところまで行かなければ本物にならない。「パソコン教室」だとか「パソコンの先生」は日本中にいる。しかし、そのほとんどは「ここをクリックして、ここをクリックして・・・」という教え方だろう。私はそういうことはしたくない。私が伝えたいのは、「なぜそこをクリックして、どうして次にここをクリックするべきなのか?」という、自分自身で考える力だ。

そういうことをいうと、どこからともなく必ずあがる言葉がある。
「そんなことを言っても相手は障碍者ですよ。レベルとか現実とかそういうのをもっと考えてくださいよ!」と。
・・・フザケンナ!

私はそういう意見から真っ正面から対決したい。実際に投薬によってだいぶ状況がよくなっている人もいる。そういう人も全部ひっくるめて「そうはいっても障碍者だから無理でしょう」と言われてしまうと、心の奥底から怒りがわき上がるのだ。なぜ、未知の世界にチャレンジすることを第三者から「抑制」されなくてはならないのか。

比較的ごく少数ではあるものの、支援者を見ていると当事者のことを「幼稚園児」のように目下扱いしているフシが見え隠れする人もいる。

そもそも「障碍者だから無理でしょう」とは何様のつもりか。障碍者の側に立ったつもりで当事者の将来の選択肢を除去する輩もいる。無難な支援者はどうしても無難な人生にしか導けない。当事者にせよ支援者にせよ、リスクを取ってこそたどり着けるゴールが見えてくるケースもあるのではないか。

たまたま障碍のない人だってそうだ。「無難な人生を過ごしたい」という人もいる。逆に「リスクを取ってでも楽しい人生を過ごしたい」という人もいる。しかし、障碍があるとなると一様に「障碍があるんだから無難な人生を過ごせばいい」という論調になるように思えてならない。でもそれは違うだろう。

彼らの生き方とか望みは最大限活かされるべきだ。私は彼らの「野心」をどうやって現実のものにするのか。そこを考えている。人が生きるということは必死で願いを追いかけ続けることなのだと思う。たまたま障碍をもっただけで、その権利を第三者から剥奪されていいものではない。

私はある程度、「望み」とか「夢」とか「野心」を持った当事者の夢を叶える仕事がしたい。「なんとなく人並みでいいです」とか「仕事ならなんでもいいです。」という人には、受け入れてくれる支援組織がいくらでもある。そうでなく「これがしたい!」という強い願いを持つ当事者の夢を一緒に追いかけたいのだ。私は彼らを甘く見ていない。

そこまで可能性を信じなくて、何ができるというのか。

そんな気持ちを胸に、私はITの「おもしろさ」を伝える講義を続けている。私は「パソコンの先生」ではなく、「好奇心の育て方」を伝えている人間だ。それに「先生」と呼ばれるほど偉くもない。だから何度も書きたい。私のことを「パソコンの先生」だなんて呼ばないでほしい。

2010年8月7日土曜日

いいこいいこ・・・できない

精神の障碍のある人の就職サポートの現場にいるが、その中ではなんともスッキリしないこともある。

精神的に上がり調子にならない人を応援して調子を上げていく。このこと自体は問題はない。ただ、それが行き過ぎた時に、本人の人生がどうなるのだろうかと心配になることがある。

たとえば、履歴書や職歴報告書を全部書いてあげたり、企業とのやりとりをすべて福祉スタッフが本人の肩代わりをすること。これらは就職支援の場では日常茶飯事だ。「いいこいいこ」しながら、なんとかなだめすかして就職させている状況も多く見てきた。

でも、私の気持ちは少し違う。どこまでも「肩代わり」ではなく「支援」であるべきなんじゃないかと思うのだ。過保護な親が大学の卒業式にまでついていく・・・と、そんなイメージが頭をよぎってしまう。

たまに私がIT系の作品作りをサポートすることもあったが、まるで私が就職試験を受けるような気分になったものだ。

そしてそこから葛藤が始まるのだ。「彼が無事に就職できたとして、その後、ちゃんとひとりでやっていけるだろうか?」と。いくらフォローするといっても24時間体制で食いつくわけにはいかない。仮に納期が遅れそうだからといって、私が彼の仕事に張り付くこともできないのだ。

私の「即戦力ITコース」では、比較的厳しい姿勢をとっている。いや、実際のところ、「厳しい姿勢をとろうとしている」が正しいかもしれない。もちろん、病気は病気として認めたい。

しかし、私は「病気」を認めるギリギリ端っこの部分に位置していたいと考えている。「『病気』をいいわけにしない」ギリギリのところで、いろんなことを楽しみながら身につけてほしいのだ。

自分自身についてもそうなのだが、高いモチベーションを維持していくためには、自分でできたことに対して適正な評価をしていく必要がある。

だから、受講生が自力で何かを成し遂げた時には、そのすばらしさを言葉で本人に伝えるようにしている。もちろん私だってうれしいのだから。

しかし、そこからが難しいところだ。

人によってはそのレベルで満足してしまい、先に進もうとしなくなってしまうことがある。もちろん、「昨日の自分にできなかったことができるようになった」ということは、間違いなくすばらしいことだ。

だが、肝心なのは「その先」が必ずあるということだ。挑戦しようとする限り、頂上まで続く道は続いている。それを自覚するだけで姿勢が変わってくると思う。

だから、「いいこいいこ」だけでは、現実的な就職に結びつくところまで行きつくまでに、とても時間がかかってしまう。向かうべき最終的な到達点までの距離を見誤ってしまうからだ。

私が担当しているコースには「甘口」と「辛口」がある。「辛口」は受講生自身の力で這い上がってもらうため、私はそのためのヒントを伝えたり、モチベーションを高くするためのコーチングに専念するゼミ形式だ。

一方、「甘口」は自力で這い上がっていくために必要な練習をする場で、私が全員の前で講義をする形式だ。より自主性が必要とされるのは「辛口」であることは書くまでもない。

しかし、実際には「甘口」の方が受講生から高評価をもらうことが多い。それも、簡単にすればするほど高評価になる傾向がある。正直なところ心中複雑だ。

甘くすれば甘くしただけ、現実的な就職への道が遠のくばかりなのだから。だから「辛口」の受講生にはそれなりのストレスがかかるようにしている。それは「やや高いハードル」だったりもすれば「期待感のプレッシャー」だったりもする。

当たり前のことだが、「お金をもらう」=「プロ」ということだろう。すると「就職してお金をもらう」=「プロになる」ということだ。当然ながらプロにはプロなりの姿勢や考え方が要求される。

たとえば画像修正(レタッチ)であれば、誰が見ても画像修正を施したと分からないレベルにまで仕上げることだ。特に自己満足ではなく客観的に見られるようになることが重要だ。

よく受講生から「これで完璧です」と作品を見せられることがあるが、画像であれば目立つところにノイズがのっていたり、Webページであれば誤字脱字があったりすることがある。このあたりの「詰め」の部分の厳しさを持つことは大事だ。

そういう作品については遠慮なく突き返している。せっかくできるようになってきたのだから、中途半端ではもったいないのだ。できない人には要求しない。できる可能性があるからこそ厳しくする。

よくできたところは最大限に賛辞を送る。しかし、中途半端だと思うところについては遠慮なく辛口コメントを飛ばしている。なぜなら、いずれ「ひとりだち」をしなくてはならないからだ。

自分の人生には自分自身で責任を持つ必要がある。だから、私は本人のためにならないと判断したときは絶対に「いいこいいこ」なんてしない。