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2010年2月11日木曜日

差別禁止反対?

書くべきかどうか迷ったのだが、実は私は「差別感」の多い人間だ。これは間違いなく自覚している。私はいろんなことを差別している。「差別」ではなく「区別」でもいい。どっちでもいい。

そして、「差別禁止」という言葉に違和感を感じてもいる。国によっては「差別禁止法」なるものもあるのだとか。しかし「差別」があるから「差別禁止」なわけで、逆に「差別禁止」と言っている間は「差別」が存在するわけだ。

それはさておき、私は区別やら差別をしてしまう人間だ。それは私の選んできた道が「理系」ということもひとつの要因だと思うし、子供の頃にイジメにあった経験があることも要因だと思う。

理系は「定量的に何かがどのように違うから、得られる結果がこのように変わる」という習慣の上で生活している。また実際にイジメに遭ってみれば「みんな平等」という言葉は白々しいだけで、心に響かなくもなる。

「ほんとうに『みんな平等』だとするならば、僕はいじめられないはずだ。おそらく何かが違っているからこそ、こんな目に遭っているんじゃないか?」・・・とイジメられっ子が発想することは許されないことだろうか。

「イジメられる人とイジメられない人の『差』ってなんだろう?」と幼少期に考え続けて成長すると、「区別」とか「差別」をベースとする推論方法が、知らず知らずのうちに思考の一部になってしまうような気がする。

「差別」やら「区別」やらをされた経験がある人ほど「区別」やら「差別」やらという言葉が心に刺さっているように思う。そして過剰反応もしやすいような気がする。

しかし、「区別」とか「差別」というのは本質的に消えないものではないかと思う。言葉遊びに見えるかもしれないが、「区分け」とか「差」というのは必ずあるのだから。

たとえば「自分は男だ」という場合、そこには必ず「女」という対象を暗黙的に意識しているはずだ。自分以外の「その他」という概念があってはじめて、自分を認識することができるのだから。

その上で「女は平均的に男よりも力持ちが少ない」という事実があるわけで、これが私にとっての「区別」だったり「差別」だったりする。その延長線上に「だから力仕事で男は女を気遣いましょう」という自然な流れができたりする。

ただ、そこで間違って「だから女は男より劣っている」という優劣論に向かうと、いわゆる一般的な「男女差別」とか「女性蔑視」になってしまう。本当は事実としての「区別」や「差別」があって、そこからどう考えるかが大切なだけだと思う。男女のどちらも必要なのだから。

焦点が優劣論の次元に発展さえしなければ、ありのままの「区別」や「差別」は存在していいのではないか。そこに無理な圧力をかけて「差別禁止」と押さえつける動きはかえってよくないと私は思う。

差別を禁止するのではなく、「差」だとか「違い」を受け入れること。その上でどのように良好な関係性を築いていくのか・・・という観点があってもいいのではないだろうか。「差」というとマイナスイメージで、「個性」というとプラスイメージになるのだから、言葉遊びというのはまったくもって不思議だ。

ともかく、やみくもに「差別禁止!」と叫んで、相手を思考停止状態に陥らせてはつまらないと思う。そんなことでは「どこがどう違うんだろう。どうしてなんだろう。どうすればいいんだろう。」という発展的な方向に進めない。

「差別禁止」という一言には、「臭いものにはふた」という側面があるような気がしてならない。「差別禁止」と拳を振り上げれば振り上げるほど、見えざる溝は深く離れていくのではないか。

相手を真っ正面から見ないで相手を認めることって実は難しい。「差別しちゃいけない」という強迫観念を感じながら、窮屈な姿勢で接するのはどこかウソくさい。そうかといって無視をするのもどうかと思う。

そういう息苦しさが漂ってしまうと、むしろその相手から心理的距離を遠ざける原因になったりもする。だからこそ相手をちゃんと見て、障碍部分もひっくるめて人格を認める段階が必要なのだと思う。少なくとも私はそう思う。

障碍を持っていて、むちゃくちゃ楽しい人を私はたくさん知っている。たいていそういう人は障碍についても開けっぴろげだ。そこには「障碍を見て見ぬふりをする」息苦しさはない。「差」を理解した上でつきあえれば逆に気楽につきあえるものだと、つくづく思う。

で、私は楽しくつきあえる人たちと、そうでない人たちを「差別」している。健常者であろうが、障碍者であろうが関係ない。私が「差別」といっているのは、私にとっての「カテゴライズ」に過ぎないのだから。

みんな、「差別」ってやってると思うよ。「友達になれる人」と「友達になれない人」・・・みたいに。他にも「あの人は信用できない」とか「この人は信用できる」とか・・・それなりにみんな「差別」とか「区別」をしていると思う。

もうちょっと踏み込んでみれば、「人類みな平等」なんて言いながらも恋人やら伴侶はお一人様限定だ。告白されても断らなきゃいけない人もいる。これだって「区別」とか「差別」だ。(これを断らないでトラブルを起こす人もいるわけだけど!)

きれい事を排除するなら、誰しも「差別」やら「区別」をしている中で、「差別禁止」ありきのアプローチは個人的には好きじゃない。なんだかわざとらしくて。

ただ、そうはいっても世の中広い。法律で縛らなければ分からない人もいる。そういう人には「差別禁止法」のような強制力はやはり必要なのだろう。理想と現実にはこういうところに溝がある。

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